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千色の衣 後


ほんと、うるさい。
昨夜、城下の外れで一護を見つけた藍染が探索の的を城下に絞ったせいで、城の中も張り詰めた空気が漂っている。城に出入りする者は男女問わず兵に呼び止められ顔を改められているのだが、薄汚い馬番に注意を払う者は誰もいない。
ヌメロスに率いられた兵の一団を横目に、一護は飼葉桶を抱えのろのろと厩舎に入った。

「ほんとご苦労さま、だよね」

外の喧騒も我関せずと飼葉を食む斬月に頬を摺り寄せ、小さく呟いた。

昨夜、思いがけない藍染との遭遇に、一護は斬月を駆り逃げ出した。
斬月を厩に戻すと、一護は念入りに顔と髪に泥と灰を擦りつけ、寝床代わりの藁床に潜り込んだ。心臓は早鐘を打ち、冷たい汗が額を伝った。怖かった。もしも捕まっていたら、と想像するだけで身体が震えた。
だが、夜が明け、騒々しさに目を覚ました時、ふと思った。あの時どうして自分はあんなに焦って逃げ出したんだろう。
自分を望む藍染が怖くて城を逃げ出した自分。逃げ出すのは当然と言えば当然なのだが。

「あーんな顔するなんてさぁ」

斬月の首に顔を埋め、一護は耐え切れず肩を震わせた。堪えても堪えても笑いが込み上げてくる。
自分を見てぽかんと口を開けたマヌケな顔。あの藍染が、ただ呆然と立ち尽くして。あんな藍染は初めて見た。
その姿には、列強を制した王の威厳は欠片も無かった。

「外面は良いくせに、案外抜けてんだよねぇ」

くすくすと笑いながら一護は斬月に頬を摺り寄せた。一護の瞳が暗く瞬いている。

「ねぇ、斬月。どうしよっか」






「待て、一護っ!? 一護だろう?」

叫ぶ藍染に、一護は密やかに微笑んでマントを翻し駆け出した。翻った裾から金の粒がキラキラと弾けて、空に細い軌跡を描く。

「待ってくれ!」

追い縋る声を背中に受け、一護は葉陰を縫うように木立の間を走り抜けた。
楽しかった。
いつも毅然とした藍染が、戸惑い、うろたえる様が。自分を追い求め、手を伸ばす様が。
取り澄ました仮面の下から覗く顔が。
それは王でもなく、父でもない、ただ狼狽えるしかできない男の顔だった。
楽しかった。楽しくて、愉快で、笑いが止まらなかった。
どうしてあんなに怖がって逃げ出したのか、今となっては不思議な程で、ならば帰ればいいだけではないのかとも思うけれど、この浮き草のような生活も捨て難く。
今では城で夜会がある度に、一護は藍染から贈られたマントを纏い、あの草原で藍染との邂逅を心待ちにするようになっていた。
藍染も、一護の心情を知ってか知らずか、どれだけ夜が更けようとも必ず草原にやってくる。そしてするりするりと身を翻す一護に届かない手を伸ばし、戸惑いがちに一護の名を呼ぶ。
弓張り月が照らす下で、終らない鬼事は繰り返された。


その日も城は朝から喧騒に包まれていた。
厨房には大量の野菜や肉が運び込まれ、料理番が殺気だってあたり構わず怒鳴り散らしている。

「今日は何があるんだ?」

竈用の薪を厨房の床に下ろし、一護は一際目立つ赤い頭に声をかけた。

「夜会だってよ。忙しくて適わねぇ」

馬番に身を窶してから一護が言葉を交わす数少ない相手である恋次が溜息混じりに吐き捨てた。料理番見習いである恋次にしてみれば、膨大な量の料理を準備せねばならない宴会など迷惑以外の何者でもないだろう。
今も床に座り込み、真っ赤に充血した目でタマネギの皮を剥いている。恋次は袖で涙を拭うと、腹立たしげにタマネギを籠にまた一個積んだ。

「最近、夜会続きでいやになっちまう。厩番には関係ねぇだろうけどよ」
「……夜会。夜会ねぇ」

繰り返し呟く一護を訝しげに恋次が見上げた。いつも顔を伏せ、隠れるように身を潜めている一護が、周囲の視線も気に留めず目を細め厨房を見渡している。

「なんだよ? なにか気になるのか?」
「いや、別になんでもねぇ」

一護は薄汚れたフードを目深にかぶり、恋次に背を向けた。

「忙しいだろうけど、がんばれよ」

フードの下、ゆっくりと一護の口の端が上がった。紅い舌先がゆっくりと上唇を舐めた。






「一護っ!」

夜更け過ぎ。藍染の声から鬼事が始まる。
一護は千色のマントを翻し、草原を駆け抜けた。藍染の指が届く寸前で身を翻し、振り返る。

「一護、一護」

躓きながら一護を追う藍染は、これが近隣に名を轟かす常夜の国の王とは思えぬ情けない表情を浮かべている。
頼りなげに呼ぶ声が心地よく、一護は嫣然と微笑んだ。
藍染が弱い姿を見せるのは自分だけ。それが堪らない優越感となって一護を包んでいく。
千色のマントを翻し、一護は藍染の手をするりするりとすり抜けた。翻るマントの裾は色彩を集めたかのように眩く煌いている。

「一護、待ってくれ」

息を切らせる藍染に、そろそろ頃合か、と一護が森の奥へと足を向けた時、ガサリと樹木を揺らす音が響いた。
ハッと顔を上げた一護の前に、見覚えのある顔が並ぶ。

「一護様。そろそろ時間切れです」

ウルキオラが一護の両手首を掴み、捩じ上げた。

「俺らに手間かけさすんじゃねぇよ。俺ぁガキの世話するために十刃になったんじゃねぇんだ」

苦痛に声を噛み殺す一護の両手首にグリムジョーが、華奢な金の鎖を巻いた。

「なかなか楽しかったよ。しかし、もう充分だろう」

背後から大きな掌が両肩に置かれた。びくりと背を震わせる一護の耳元で、熱い吐息が囁いた。

「帰っておいで、私の一護」

包み込む腕に背中を預けて一護は答えた。

「あぁ……そうだな」

久しく忘れていた温もりの心地よさに、一護はゆっくりと目を閉じた。








「起きなさい、一護。もう陽は高い」

藍染の声に、一護はゆっくりと目を開いた。

「陽も高い。次代の王が昼過ぎまで寝所に篭っているなど、家臣に示しがつかないだろう」
「……誰のせいだと思ってんだよ。朝まで離してくんなかったのはアンタだろ」

一護は全裸にシーツを巻きつけ、のろのろと寝台に身を起こした。
艶の残る疲れた表情と四肢に散る紅い痣を、藍染は愛しげに見詰め微笑んだ。

「都合のいい時だけ『時代の王』扱いすんじゃねぇよ」
「そう怒るな」

鷹揚に微笑み、藍染が一護の頬に手を伸ばした。顔が寄せられ、一護はうっとりと目を閉じた。
唇に唇が重なり、暫し舌を絡めあった後、微かな音を立てて唇が離れた。

「一護に贈り物があるんだよ。なかなか適当なモノが見つからなくて難儀したが、これなら一護も気に入るだろう」

藍染が一護に籠を差し出した。大人が両手で抱えるほどの籠の中は、絹が幾重にも重ねられている。
受け取ろうと手を伸ばすと、絹の山がもぞもぞと動き出し、一護は咄嗟に手を引っ込めた。

「怖がらなくていい。きっと気に入る」

藍染が思わせぶりに微笑んでいる。一護はおそるおそる籠を受け取り、一枚一枚絹を剥がしていった。

「へぇ…… これって」

絹の狭間から、生まれて間もない赤ん坊が小さな手を伸ばしていた。

「かわいいだろう。この子なら一護の次代を継ぐに相応しいと思ってね」

赤ん坊は零れそうに大きな目でじっと一護を見詰めている。銀糸のような髪が、この子供がこの国の生まれではないことを物語っていた。自分と同じように、どこか遠くの国から連れて来られたのかもしれない。

「いいな、かわいいじゃねぇか。泣きも、ぐずりもしねぇあたり、大物っぽいしな」
「気に入ったか?」
「あぁ…… この緑の目も翡翠みたいで、常夜の国の王に相応しいしな。俺ん時ほど苦労はしねぇだろう」
「……私はオマエにそんなに苦労をかけたのか?」
「そりゃ、それなりにね。こんな珍しい髪の色じゃなければ、そうでもなかったと思うけど」

哀しげに眉を落とす藍染に、一護はにやりと口の端を上げてみせた。

「ウソだよ」
「そうなのか?」
「あぁ。それに王子どころか、お后サマにまでさせられて。こんな珍しい経験してるヤツなんて、そういねぇし」

籠の中から赤ん坊を抱き上げ、一護は優しく微笑みかけた。じっと自分を見詰める赤ん坊を優しく抱き締める。

「オマエは今日から常夜の国の王子だ。誰からも……父上からも愛される、立派な王子になるんだぞ」








END