城の外は深い森。
暗く沈んだ闇の中、一護は走った。途中、木の根に足を取られ、何度も転倒し、ひたすら走った。
やがて疲労で足が止まり始めた頃、一際大きな木に洞を見つけ、一護はほっと息をついた。洞にもぐりこみ、膝を抱え込んだ。
「父上……」
ほろりと涙が零れた。
昨日まで何不自由なく暮らしていたのに、暗い森の中、木の洞で一人膝を抱える自分が惨めで、次から次へと涙が溢れてくる。
尊敬していた。心から。
ただの気まぐれだったとしても、どこの馬の骨ともわからない自分を引き取り、自分の子供として、一国の王子として何不自由ない暮らしを与えてくれた。人の優しさを、暖かさを教えてくれた。
もしも藍染に出会えなかったら、赤ん坊のまま死んでいたかもしれない。運良く生きのびていたとしても、獣と変わらぬ生活を送る破目になっていたかもしれない。
血の繋がりなどなくても、父子の固い絆で結ばれていると信じていた。
それなのに。
「……どうして?」
父から贈られたマントの包みに顔を埋め、やがて一護は眠りに落ちた。
「なんだぁ、こいつは」
騒がしい物音で一護は目を覚ました。
瞬きを繰り返し、漸く焦点の定まった視界は、柔らかな陽の光に溢れていた。きょろきょろと周囲を見回し、一護はぎょっと息を呑んだ。
黒い猟犬が洞の中を覗き込んでいる。
荒い息遣いと低い唸り声に、一護はじりじりと洞の奥へ後退さった。
「オマエ、誰だ?」
猟犬を押し退け、男が洞を覗きこんできた。
黒い眼帯に、黒い長髪。十刃の一人、ノイトラだ。もっぱら国境警備に就いているために、顔を合わせる機会は殆ど無かったが、確かに見覚えがある。
「紛らわしい小僧だな。とっとと出て来い」
連れ戻されるのか。一護は抵抗する気力すらなく、ノイトラの手で洞から引き摺りだされた。
「一護様ですか?」
ノイトラの背後から、青年が顔を出した。テスラとか呼ばれていたような記憶がある。
「違うだろ。あのワガママ王子は萱草色の派手なアタマが目印だ。こんな小汚い灰毛じゃねえ」
「髪以外に目印はないんですか? 一護様と接見したことくらいあるでしょう? ノイトラ様も一応は十刃なんですから」
「知るかよ。あの王子、いっつもウルキオラの後ろに隠れて、まともに顔を見た覚えがねぇ。元々興味もねぇしな。顔なんて覚えてるわけねぇだろ」
「……ノイトラ様が自分以外に興味を持つこと自体、ありえないですけど」
「なんか言ったか?」
「いーえ、別に。とにかく、コレは一護様ではないんですね?!」
「あぁ、違うな。ただの浮浪児だ。髪の色は変えられねぇ」
はっと頭に手をやってみると、掌にごわっとした感触がある。恐る恐る手を下ろして見ると、掌一面に白茶けた泥が付いていた。髪だけではない。よくよく見れば、服もところどころ破れ、泥に塗れ薄汚れている。目立たない服に着替えて
そういえば、昨夜、闇雲に走っている間、幾度も転倒した記憶がある。その時に付いたのだろう。
「ならば放っておきましょう。こんなところで浮浪児を構っているヒマはありません。一護様を探さなければ」
青年がノイトラの腕を引いた。
立ち去ろうとする気配に、一護がほっと息を吐いた時、ノイトラが一護の腕を掴み、ニヤリと唇を上げた。
「まぁ待て。数字持ち(ヌメロス)の厩番が下働きを探してただろう。浮浪児ならちょうどいい。多少こき使っても、文句を言って来る親もいねぇ」
数字持ち(ヌメロス)とは常夜の国の正規軍の通称だ。十刃ほどではないにしても、その勇猛さは他国に轟いている。
その数字持ち(ヌメロス)に連れて行かれるということは、折角逃げ出してきた城に連れ戻されることになる。絶対に戻りたくなどない。一護は必死で首を振り抗った。
「煩せぇ。逆らってんじゃねぇ」
ノイトラが一護の腕を掴み、テスラを振り返った。
「俺はこれからコイツを城に連れて行く。テメェもあんまりくだらねぇことに時間かけてんじゃねぇぞ。ワガママ王子探しなんて、ウルキオラあたりに任せておきゃあいい」
「……まぁ適当に切り上げますよ」
テスラが小さく肩を竦めて、一護を振り返った。
「ところで、オマエ。名前は?」
「あぁん? こんな浮浪児に名前なんて大層なモンがあるわけねぇだろ」
嘲るノイトラに、一護は唇を噛んで俯いた。適当な名前が思いつかない。
「テメェみたいに小汚い小僧は『シロ』とでも名乗っておけ。薄汚れた灰毛にぴったりだ」
「斬月、元気か?」
夜更けの厩に忍び込み、一護は厩の一番奥、ことさら暗い一画へ低く声をかけた。
一護の視線の先では漆黒よりも深い黒毛の馬が首を傾げていた。額に浮かぶ傷のような白い斑紋の下、黒々とした瞳が優しげに瞬いている。
太い首に両腕を回し、一護は深く息を吐いた。
「オマエがいてくれて、良かった……」
斬月は城に居た頃の一護の愛馬だ。優しく、しかし逞しい、一護自慢の相棒だった。
少しばかり気難しく、一護以外には全く懐こうとしない斬月は、厩番には悩みの種だったらしい。ノイトラから一護を渡された厩番は、渡りに船とばかりに一護に斬月の世話を命じた。
元が名も無い浮浪児ならば、どんな扱いをしてもいいというものだ。仮に斬月に踏み殺されたとしても、心を痛める者もいない。
だが、斬月は一目で「シロ」の正体を見抜いた。おずおずと手を差し出す一護に頬を摺り寄せると、静かに鼻を鳴らした。まるで、一護が自分の正体を隠したがっていることを察してでもいるかのように、控えめに、だが確かな信頼と深い愛情を示す仕草だった。
斬月がいる。それだけが幸せだった。
馬番としての暮らしは、それまで力仕事など無縁の生活だった一護に辛いことばかりだったが、斬月の近くに居られる間だけは、その辛さも忘れることができた。斬月の温もりで強張った心が解けていくような気がした。
ぎゅっと抱きついていると、斬月が一護に顔を摺り寄せ、低く鼻を振るわせた。
「なに?……あぁ、これか?」
一護は斬月の首から腕を離し、手の甲で自分の頬を拭った。乾いた血が白い肌の上に茶色い染みを作った。
「飼葉を運んでてさ…… のろのろやってんなって、厩番のオッサンに殴られただけだ。大したことねぇから…… 心配かけてゴメンな」
無理矢理の口端を上げ、一護は斬月に微笑みかけた。気遣うように瞬きを繰り返す斬月に見詰められ、一護はぎゅっと唇を噛み締め俯いた。伝わってくる優しさに、ぽろりと涙が零れてくる。
「たまには、昔みたいに遠出しようか? 今夜は俺以外は総出で城内の手伝いに行ってるから、誰にも見られないだろ」
国外からの賓客とかで、城では盛大な舞踏会が催されている。城の人間は殆ど手伝いに借り出されていたが、薄汚れた厩の下働きである一護には「そのキタネェ姿が客の目に触れないよう、どっかに引っ込んでいろ」と侮蔑が与えられたのみだ。
一護はそっと斬月の背に跨った。静かに斬月の背に立ち上がると、厩の天井に手を伸ばした。梁の上を探り、指先に触れた柔らかな包みを引き下ろす。
下ろした包みを両腕で抱え込み、一護は斬月の背から飛び降りた。ほっと息を吐き、藁の上に座り込んで一護はそっと包みを解いた。
「……キレイだよなぁ」
襤褸のような包みの中から現れたのは、金、銀、煌びやかな光の塊。結婚の条件として藍染に強請った、あの3枚のマントだ。
出奔の際、取り立てて理由もなく咄嗟に持ち出してしまったが、今の一護にとっては大切な宝物。常夜の国の王子として夢のような日々を送っていた唯一の証のようなものだ。
誰かに知られたら、身分不相応だと取り上げられてしまうのわかっていた。だから一護はそれを自分以外は誰も近付かない斬月の元に隠したのだ。
「こんなにキレイなモノを手放すなんてできねぇよな」
一護は3枚の中から銀色に光るマントを選んで羽織ると、ぎゅっと両腕で自分の身体を掻き抱いた。胸の奥から熱いものが込み上げ、徐々に王子だった頃の矜持が甦ってくる。
ぎゅっと目を閉じ、そして再び目を開けた時には、おどおどと怯えた浮浪児は自信に溢れた力強い少年に変わっていた。
「行こうか」
斬月の背に飛び乗り、一護は斬月の腹を軽く叩いた。一護の声に応える様に斬月は低く嘶いた。蹄で地面を二度、三度掻くと、力強く大地を蹴った。
城内から、城外へ。いつも斬月と共に駆けた草原へ。射干玉の闇の中、漆黒の疾風の如く、一護は斬月を駆った。冷たい夜の空気が頬を切り、一護は恍惚と目を閉じた。
こうしていると自分の身に降りかかった出来事が、全て泡沫の夢のように思えてくる。このまま城に戻れば、ウルキオラが、グリムジョーが、そして藍染が、変わらぬ笑顔で出迎えてくれるような気さえした。
本当に夢だったらいいのに。
何度も繰り返し、その度に諦めるしかないのだと溜息に紛らせ吐き出してきた。詮のないことだとわかっていても、それでも日々胸中に生まれてくるやるせない感情は、澱となって一護の奥深くに沈んでいた。
「ほんと、夢に出来るんなら……俺、何だってできるのに」
重苦しい溜息に、斬月が心配気に一護を振り返る。
ぎこちなく一護は斬月に微笑み、空を振り仰いだ。視線の先には大きな月が、冷たく輝いていた。冴え冴えとした白い光は草原を照らし、風が吹く度に凍えた波の如く揺らしている。
微かな葉擦れの音が、重い静寂となって一護を覆っていく。
誰もいない。自分と斬月以外は誰も。
一護は拳で瞼を擦り、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。
「そろそろ帰るか。おまえも眠いだろ」
一護が手綱を引き、城に視線を向けたその時、掠れた叫びが一護の耳を突いた。
「一護!?」
藍染が。白く輝く草波の中、藍染が驚愕に目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。