一つ歩を進める度に、崩れそうな疼痛が走る。せり上がる呻き声を喉で押し殺し、ディアッカは更に前へ進んだ。
指を伸ばし、ドアを開ける。常夜灯がほの暗く照らす廊下に出ると壁を伝い、隣室の、ノイマンの部屋のドアへ向かった。
普段ならば数秒で行き着くドアが、果てしなく遠く見える。
何度も立ち止まりながら、やっとの思いで辿り着き、ディアッカはドアに凭れかかり横のインターフォンを押した。
「誰?」
インターフォンから聞こえる優しい声に、安堵の涙がじわりと浮かんでくる。
会いたい。会いたい。会いたい。
今ディアッカの胸中にあるのは、ただその一言。
「俺……ドア…開けて…」
早く、会いたい。
「どうしたんだ? 勝手に入ってくればいいのに。パスワードは教えただろう?」
しゅっと軽い音を立てて、ドアがスライドする。凭れかかっていた身体は支えを失い、ドアの中に倒れこんだ。
「ディアッカッ?!」
床に落ちる、と思った身体は、差し伸べられた両腕に抱きとめられた。伝わってくる体温に、安堵が広がっていく。
同じ人肌の温もりでも、相手が違うだけでこうも違うものなのか、と今更ながらに思い知る。
「ディアッカッ?!どうしたんだ、その顔はっ!何があったんだっ?!」
両肩を揺すられ視線を上げると、引き攣ったノイマンの顔。その表情には混乱と怒りが滲み出ているのに、その底に潜む優しさが、暖かな空気を作り出している。
「な、にも…」
「そんなこと信じられる訳ないだろうっ!」
血の気を失った頬。唇の端に微かに残る血の紅。そして、両手首に刻まれた指の跡。
それらは間違いようも無く、ディアッカが暴力的な行為によって痛めつけられたことを示していた。
「ケンカ、じゃないよね……フラガ少佐?」
フラガの名前に弾かれたように、ディアッカの肩がびくりと震えた。
「少佐、なんだね…」
念を押すように繰り返された名前に、ディアッカがぎゅうとノイマンの袖を掴んだ。
ムウ・ラ・フラガ。地球連合軍の英雄。エンディミュニオンの鷹。
AAのクルーの間では、その人好きのする笑顔と気取らない態度で人望も高い。
だが、ディアッカの前に立つフラガは、そのどれでも無く。その異名のまま猛禽類の獰猛さでディアッカを支配している。
どれだけ抗っても、その圧倒的な強さと存在感でフラガはディアッカを組み伏せる。
どうしたら。どうやったら、あの男から逃げられるのか。
わからない。
わからない。
もしかしたら逃げる方法など無いのだろうか。
逃げられないのなら。
ならば。
「……ノイマンさん…」
「なに?」
「殺して……」
「ディアッカ?」
「あの男を、殺して…」
逃げられないのなら、どちらかの存在をなくしてしまうしか、ない。
意識せずに口をついたその言葉は、とても良い考えに思えて。
「そうだ、殺せばいいんだよ」
ディアッカはゆっくりと視線を空に巡らせた。口の端がにぃと上がり、生気に欠けた笑みが浮かんでくる。
「ディアッカ、自分が何を言ったのかわかっているのかっ?!」
「うん、わかってるよ……でも、このままじゃ俺が殺されるから…もう、いやなんだ……
モノみたいに扱われて…あいつに抱かれてると、自分が生きているのか、死んでいるのか、わかんなくなってくる。
あいつに抱かれる度に、俺は少しずつ殺されていく…でも、もういやだ…」
思考は言葉になる前に、悲鳴となって溢れてくる。足元がふわふわとして、浮遊感に包まれる。視界は薄い布越しに見ているように紗がかかり、夢なのか現実なのか境界線が曖昧にさえなってきた。目の前に見えるノイマンの緊迫した表情さえ、ディスプレイに映った映像のように現実感が無い。
あぁ、自分は狂ってしまったのだ。
ディアッカは他人事のように自分を見つめていた。
「ねぇ、ノイマンさん。俺を助けてくれるでしょう?!」
「ディアッカ……」
両肩を掴んでいたノイマンの手がディアッカの背後に回り、ぎゅうと強く抱きしめられた。
痛い、と抗議の意味で見上げると、苦しげに自分を見るノイマンがいた。
「助けたいよ。きみが苦しまなくてすむのなら、なんだってしたい…でも、殺すのはダメだ」
「どうして?」
こんなに自分は苦しいのに。毎日少しずつフラガに殺されて。
「あいつがストライクのパイロットだから?この艦に必要だから?」
「そうじゃないっ!きみに『殺す』なんて言ってほしくないだけだっ」
ノイマンはディアッカの頭を抱えるように抱きしめられた。ディアッカは抗うこともなく、その肩に額を擦り付ける。
「もうフラガ少佐がきみに近付かないように、俺が守るから。少しだけ俺を信じて」
ノイマンの言葉は優しい。信じてもいいのだろうか?
信じられない思いと信じたい気持ちが、ディアッカの中に広がっていた。