美味しい紅茶を煎れるコツは、新鮮な水を大きな泡が立つまで完全に沸騰させること。
これがフラガ家の使用人たちの間で代々語り継がれるアフタヌーンティーの大切なルールだ。
ディアッカは井戸から汲んで来たばかりの水をケトルに入れ、火にかけた。沸騰するのを待つ間に、ティーポットを2つ用意する。
藍色の唐草が描かれた陶製のポットにはニルギリを、繊細なレリーフが浮かぶ銀のティーポットにはキーマンを。陶製のポットはムウ・ラ・フラガの分、銀のポットはラウ・ル・クルーゼの分だ。
二人は、その性格の違いそのままに茶葉の嗜好も正反対だ。正妻の子であり正当な嫡子であるフラガは、ニルギリやダージリンのような爽やかですっきりとした味わいを好み、妾腹の子であるクルーゼはキーマンやアールグレイのようなクセのある香りの強い茶葉を好む。
どちらが良いとか悪いとか、そういう問題ではないのだけれど、二人の生い立ちを思うと、やはり然もありなんと思ってしまう。
決められた手順どおり、二台のワゴンに温めたティーカップ、小さなサンドイッチとスコーン、ジャムを乗せた小皿、そして銀の小さなスプーンを乗せた。ティーポットに湯を注ぐ前に、もう一度ワゴンの上を見直し、ディアッカは腕を組んで壁に寄りかかっている執事頭のノイマンを振り返った。
主二人に出すものは全てノイマンの確認を受けるのが、フラガ家奥向きのルールになっている。
「どうかな?」
「スコーンの盛り付け方に少しばかり品が無いけど、まぁ合格かな」
こっそり顔色を伺うディアッカへニコリと微笑み、ノイマンはくしゃくしゃとディアッカの頭を撫でた。
自分では完璧に準備したと思っていても、ノイマンの目には粗ばかりが映るらしく、今まで一度で合格が出たことが無い。いつも何かしらやり直しが命じられてしまう。
厳格なノイマンにしては珍しい誉め言葉に、ディアッカはほっと胸を撫で下ろし、ノイマンの真似をしてスコーンの皿を整えた。
「俺はクルーゼ様にお届けするから、ディアッカはフラガ様の分を運んでくれるかな?」
「はいっ!」
沸騰した湯をティーポットに注ぎポットカバーを被せて、ディアッカはからからとワゴンを押して厨房を出た。フラガの書斎に付く頃にはリーフも程良く広がっているだろう。
フラガ邸はエントランスを中心に東西に鳥が翼を広げたように長くその姿を伸ばし、今は東翼がフラガの、西翼がクルーゼの居住スペースとなっている。
通常、妾腹の子が正当な嫡子と同居することなど、余程の理由がある場合を除き皆無と言ってもいい。「なさぬ仲」という心情的な理由もあるが、余計な跡目争い、財産争いという現実的な問題もある。
だが、ラウ・ル・クルーゼは市井の踊り子を母に持ったとは思えない程、才気と気品に溢れた青年だった。その才気が埋もれることを惜しんだ先代当主アリ・ダ・フラガは、死に臨んで全ての財産をフラガとクルーゼの共同名義にする旨の遺言を残した。二人力を合わせてフラガ家を盛りたててほしい、という願いもあったのだろう。
だが、半分血が繋がっているとは言っても、二人の生い立ちには埋めようもない溝がある。いきなり家族として一緒に暮らせ、と言われても無理がある。
結局二人は居を同じくしても、必要以上には接触しない付かず離れずの生活を送ることになった。
使用人たちも主二人の意を汲んで、二人を主人として同等に敬い仕えた。
東翼にあるムウの書斎、元々は先代が図書室として使っていた部屋の前でディアッカはワゴンを止めた。扉を叩こうと拳を上げたところで、ディアッカは扉がわずかに開いていることに気が付いた。
このまま入っても構わないのだろうか、と暫し考え、とりあえずノックしておくにこしたことはないだろう、ともう一度拳を振り上げたところで、室内から響く怒声にディアッカの手が止まった。
何を言っているのかはわからない。しかし声が怒りに満ちている。
無作法とは知りつつも、ディアッカは扉の隙間からこっそり中を覗いた。
マホガニーの机に両手をつき、眼の前に立つ男をフラガが怒鳴りつけている。いつもは陽気に輝いている表情が固く強張っている。
日頃が温厚なだけに、怒りに震える姿には恐怖さえ感じる。
その怒鳴られている当の男は、腕を組み悠然とフラガを見下ろしている。その背を緩やかに波打つ長い金髪はクルーゼのものだ。
まずい時に来てしまったかもしれない。とりあえず今は出直した方がいいだろう。ディアッカは扉の前から後退さった。
足音を忍ばせたつもりが、踵が僅かにワゴンにあたり小さくカシャリと無機質な音を立てた。
「誰かいるのかっ」
鋭い誰何の声に、ディアッカはおどおどと扉を開け顔を出した。
「エルスマンです。あの、午後のお茶をお持ちしました」
「もうそんな時間か。すまない。天気も良いことだし外のテラスでお茶にしたいんだが、いいかな?」
急いで取り繕ったことがあからさまな笑顔を向けるフラガに、ぎこちなく頷き返し、ディアッカはワゴンを押して足早に書斎を横切った。
フランス窓を開け、テラスに出たところでほっと息を付き、背後を振り返った。
どうやら口論は一旦打ち切りとなったらしい。背を向けて部屋を出て行くクルーゼの後姿が見えた。
扉が閉まる瞬間、思わせぶりな笑みを浮かべクルーゼと視線が合った、ようが気がした。
ぬるりとした空気が蛇のように纏わり付き、喉元で鎌首を擡げているような錯覚に、ディアッカは息を詰めた。
幼い頃に負った傷跡を隠すため、という理由で、クルーゼは顔の上半分を覆い隠す仮面を付けている。その仮面は表情だけではなく、視線の行き先すら隠し、クルーゼ自身の本心をも曖昧とさせている。そのせいか使用人たちの間ではクルーゼに対して畏怖に似た感情を抱く者は少なくない。ディアッカもその一人だ。クルーゼに何かされたことがある訳ではない。常に物静かで、無茶を言うこともないクルーゼは、どちらかと言えば仕え易い主の部類に入るのだろう。だが、どうしても本能がこの男を忌避してしまう。危険だ、この男は危険だ、と執拗に訴えてくる。
視線を逸らすこともできず立ち竦んでいると、ふわっと風が流れ重苦しい空気が瞬く間に消えた。
「どうかした? 何かあったの?」
フラガが書斎から出て、テラスの真ん中でぐっと両手を上げて身体を伸ばしていた。先ほどまでの強張った表情は既に消え、いつもの鷹揚な笑顔が浮かんでいる。
「少しぐらい足りないものがあっても構わないよ。俺、のど渇いてるだけで腹は減ってないから」
「はいっ…… いえ、大丈夫です」
もう一度振り返った時には、クルーゼの姿は消えていた。肩から力が抜け、今更になって冷えた汗が背筋を伝ってきた。ディアッカは小さく頭を振ると、ノイマンに教えられたとおり慇懃な笑みを浮かべ、テラスのテーブルにカップを揃えた。
「お忙しいところをお邪魔したのではないかと、それが心配だっただけです」
「いや、来てくれて助かったよ…… そんなことでもなければ、きっといつまでも平行線の言い合いが続いただけだと思うし」
ガーデンチェアにどっかりと腰を下ろし、フラガは大きな溜息を付いて空を仰いだ。背中をチェアの背凭れに預け、両手は肘掛をぎゅっと握っている。
「今更ながら親父の偉大さが身に染みるよ。あの人は、たった一人でフラガ家の財産を守ってきたんだよな。俺たちは二人いるっていうのに、フラガ家を発展させるどころか親父が守ってきたものを守りきれるかどうかも……」
珍しい弱音にディアッカはこっそりと眉を潜めた。
自分にはフラガに返す言葉が何も無い。フラガの役に立てそうな言葉は持っていない。
ディアッカの沈黙をどう受け取ったのか、フラガは淡々と言葉を続けていた。
「大陸にさ、先々代が戦勲の褒章でもらったワインのシャトー(荘園)があるんだよ。うちがパーティ開く時に出してるあのワインを作ってるとこ。まー不味いってこともないし、どっちかって言えば美味い方だと思うんだけど、維持費がね結構かかってんの。今のところは他の荘園から上がってくる利益を回してるんだけどね。
でさ、クルーゼがそのシャトーを売却するか、ワインを一般市場で販売するか、どっちかにしろって言うんだよ。
確かにうちだけが飲むワインを作るためにわざわざシャトーを抱えておく意味が無いって言えばそうだろうし、シャトーの維持費をシャトー自身に稼がせろっていう意見も正しいとは思うけど、俺、あのシャトーを持ってること自体がフラガ家の面目だし、意味のある無駄だと思うんだよね……
そんでいつの間にか喧嘩になっちゃった」
がっくりと肩を落とすフラガの前に、ディアッカはそっとティーカップを置き静かに傍に佇んだ。
フラガの言うとおりクルーゼの意見は正しいのだろう。自分が飲むためだけのワインが欲しければ買えばいいのだ。最近は大陸との物流は飛躍的に発展し、いつでも希望の銘柄、年代のワインは手に入る。
だが、フラガの意見も間違ってはいない。フラガ家のためだけに存在するシャトーは、フラガ家の余裕と由緒正しさを周囲に知らしめる。もし仮にシャトーを売却したり、ワインを市場に出せば、フラガ家は経済的に困窮している、と謂れの無い噂も流されることだろう。
「大丈夫です。きっと、クルーゼ様もわかってくれると思います」
無意識に口をついた言葉に、はっとディアッカは両手で口を押さえた。意見を求められた訳でもないのに発言するなど、使用人の分を越えた無作法と叱責されても仕様が無い失態だ。
伸びてきたフラガの手にびくりと首を竦めると、ふわりと掌が頭の上に乗せられた。
「ありがとう。優しい子だね、ディアッカは」
くしゃりと頭を撫でられ、掌が首の後ろに回ったかと思ったら、唐突に抱き寄せられた。
「本当に大丈夫だと思う?」
「フラガ様は間違っていませんから……」
背中に回された両腕が痛いくらいに抱き締めてくる。まるで子供が母親に縋っているようで。
少しだけフラガが可哀相に思えた。