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ひとひらの花 8


「何すんだよっ!」

襟首を掴まれ、絨毯の上を引き摺られた。喉に襟が食い込み、息が詰まる。
クルーゼの手を振り払おうと、ディアッカは両手を振り回した。指先に柔らかな皮膚が触れる。咄嗟にディアッカは触れた先に爪を立てた。

「-----ッ!」

忌々しげな舌打ちと同時に床に叩きつけられた。強かに頭を打ち、視界が暗く歪む。
眩暈を堪え、ディアッカは震える手足で床を這い、壁際に身を寄せた。

「ノイマンの教育が足りないようだな」

クルーゼが嘲るように口端を上げた。ディアッカの爪はクルーゼの頬を引っ掻き、傷からは血が滲んでいる。その血を指先で取り、クルーゼは大げさに肩を竦めた。

「主人に望まれれば従うのが使用人の務めであろう? それが……閨の相手であっても」

見目の良い使用人が主人の寵愛を受けるなどといった話は珍しくもない。旧態依然とした身分制度のおかげで、寵愛を受けたからといって婚姻を結べる可能性などゼロに均しい。だが、寵愛を受けている間は単なる使用人以上の待遇が受けられる。運良く子を生せば、小さな屋敷を与えられ、働かずとも暮らせるだけの恩恵を得ることも、またその子供が主筋に迎えられ、自分には手の届かなかった支配者階級の一員となれる可能性もある。
労働者階級に生まれた者が成り上がりたいと望んだ時、「主人から閨に誘われること」は立身出世の大事な糸口だった。
実際、今ディアッカの眼の前で冷たい笑みを浮かべている男も、母親がその糸口を掴んだ恩恵を受けて身分制度の階段を登ってきた一人である。
だが、だからこそ、なのだ。

「あんたは…… あんただけは、そんなことしないって思ってたのにっ!」

シンデレラストーリ、玉の輿、結果だけを見れば奇麗事で片付けられるが、所詮は雇用主が雇用主たる権力で、雇用者を従わせているに過ぎない。自ら望んで身体を捧げる者もいるだろうが、主人からの命令に泣く泣くその身を差し出した者もいる。
寵愛を受けている間は贅沢な生活を送れるが、それが一生続く保証はない。主人の気まぐれで襤褸切れのように捨てられ、失意の中、職すら奪われる者も少なからず存在する。
はっきり聞いた訳ではないが、クルーゼの母も恐らくそういった不幸な女性の一人だったのではないか、とディアッカは思っていた。そうでなければ、クルーゼの母がクルーゼを産んだ後も踊り子として舞台に上がり続けていたことの説明が付かない。
だからこそ、なのだ。だから、そんな父と母の姿を見ていたクルーゼならば、主としての権力を嵩にきて、使用人に理不尽な命令を下すことなどないだろう、と。きっと誰よりも使用人の境遇や心情を理解してくれるだろう、とディアッカは思っていた。

「俺、あんたと話たことなんかないけど、でもあんたの生い立ちとか聞いて、きっと俺たちのことわかってくれるんじゃないかって……!」
「……うるさい」

クルーゼがゆっくりとディアッカに近付いてきた。理由の付かない恐怖が背筋を駆け抜け、ディアッカは身を竦め壁に背中を押し付けた。
ディアッカの前でクルーゼは片膝を折り、視線を合わせた。

「ひとつ質問がある。答えられるか?」

重い鉛のように抑揚の消えた声に、ディアッカはぎこちなく頷いた。押さえつけたような静けさが落ちる。

「何故おまえは私が使用人の心情をわかってやれると思った?」
「あんたが…… クルーセ様が前は母上様と二人で下町で暮らしてたって、すごく苦労してたって、そう聞いて」
「それは私がおまえたちと同じような境遇で育ったから、という意味か?」

クルーゼの問いに、ディアッカはぎこちなく頷いた。クルーゼがディアッカの頬を掌で包み込み、顔を覗きこんでくる。仮面越しに沈んだ瞳が見えた。

「そうだな。私は卑しい踊り子と先代のフラガ家当主との間に生まれた庶子だ。母が出ていた劇場の舞台裏が子供部屋で、観客の歓声が子守唄代わりだった。
 先代当主が気まぐれにでも微々たる養育費を母に渡してくれたおかげで学校に通うことはできたが、そうでなければ私も幼い頃から働きに出ていただろう。おまえたちと…… おまえと同じだ」
「そうじゃなくてっ!」

反論するディアッカを片手で制し、クルーゼは言葉を続けた。

「私は異分子だ。貴族階級に運良く紛れ込んではいるが、貴族ではない。先代の遺言で貴族の列席に名を連ねることは許されたが、だからといって私が貴族社会に受け入れられた訳ではない。
 その証拠に一族の誰かが宴席を設けた時に、招かれるのはあの男一人。一族の誰も私をフラガ家の一員だとは思っていない。
 この家の使用人ですら……同じだ。現在も、未来も、フラガ家の当主として認められているのは、あの男、ただ一人」

クルーゼが微かに唇を歪めた。噛み締めるような溜め息に、それが自嘲交じりの笑みであることがわかる。
尊大で、孤高の自信に溢れていた肩が、とても小さく見えた。

「当主として受け入れられず、かといって使用人にもなれない。私は、この家で独りだ。おまえもずっと独りだったのだろう?」

頬を摺り寄せ、クルーゼが耳元で囁く。肩を抱かれ、腕の中に抱き込まれる。心臓の鼓動が聞こえる。
生まれ育った極東の地で受け入れられず、この地に流れ着いた自分と、迎え入れられた生家にすら居場所が無いと嘆く男と。
ディアッカは強張る喉から言葉を搾り出した。

「俺は、クルーゼ様に…… 心からお仕えしています」
「言葉だけならば、いくらでも繕える。私は証がほしい」

耳元を擽る吐息が熱い。ごくり、とディアッカは息を呑んだ。

「どう、すれば……?」
「身体で誓え。私に全てを」

ディアッカはぎゅっと目を閉じ、クルーゼの背に手を回した。指先が震えた。






.....to be continued