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ひとひらの花 7


「失礼いたします」
「適当に置いておいてくれ」

書類を手にデスクに座るクルーゼを横目に、ディアッカはホットウィスキーの入ったグラスをトレイに乗せ、クルーゼの部屋へと足を踏み入れた。
唐突とも言えるクルーゼからの指示にノイマンは何も言わず、ただクルーゼ愛用のグラスにホットウィスキーを準備していた。きっとノイマンから何か言われると想像していたのに、その無言がディアッカの不安を掻き立てた。
何でもいい。何か言ってほしい。救いを求めるようにノイマンを見上げても、ノイマンは静かに微笑んでグラスの乗った銀のトレイをディアッカに差し出すだけだった。
気泡の混じる厚いガラス製のグラスは、クルーゼがこの屋敷に移り住んで来た時に持ち込んできたものだ。古参の使用人の中には「育ちが知れる」と眉を顰める者もいたが、クルーゼは頑なに毎日そのグラスを愛用していた。
これを渡してしまえば役目は終る。ディアッカは最新の注意を払って、静かにグラスを置いた。

「それでは失礼したします」
「戻ってよいとは言っていない。暫く待っていろ」

クルーゼは視線も上げず一言告げると、書類をデスクに広げ、さらさらと何か書き込み始めた。
ペンが紙を擦る音が沈黙を更に重くする。
グラスのホットウィスキーから登る湯気が薄くなり始めた頃、ようやくクルーゼはデスクから腰を上げた。

「待たせたな」

近付いてくるクルーゼにディアッカは小さく頭を下げ、一歩下がった。
ディアッカの前を通り過ぎ、クルーゼはソファに腰を下ろす。ゆったりと足を組み、ソファの背に身体を預ける。ふぅと深く溜め息を付くと、テーブルからグラスを持ち上げた。
これまで近くで見る機会がなかったからだろうか。クルーゼが思った以上に姿の美しい男であることにディアッカは心ならずも驚いた。
ソファの上で寛ぐ四肢は伸びやかで、フラガ家の若き当主として充分な気品と威厳を漂わせている。表情を隠す仮面さえ、まるでフラガ家の伝統を具現化したような重厚さがある。
しかし何よりも驚いたのはフラガとクルーゼとの類似性だ。全く似ていない筈なのに、二人はとてもよく似た姿形を持っていた。

「何を見ている?」
「いいえ……」

クルーゼの言葉に自分がまじまじとクルーゼを見詰めていたことに気付かされ、ディアッカは視線を足元に落とした。

「私は『何を見ているのか』と聞いたのだが」

一言一言を区切るように、クルーゼが再度ディアッカに問うた。心なしか声に棘が潜んでいる。
ディアッカはびくりと首を竦ませ、僅かに顔を上げた。
感情の読めない仮面越しに、突き刺すような視線が向けられていた。
ディアッカは唇を舐め、言葉を選びながら口を開いた。

「クルーゼ様を見ていました。とても似ていらっしゃいましたので」
「誰に?」
「フラガ様に」
「私もフラガの名を持つ者だが? 私に私が似ている、という意味か?」
「いいえ、言葉足らずで申し訳ありません。ムウ様に似ていらっしゃると……」
「当然だろう」

クルーゼは冷めたホットウィスキーを喉に流し込み、吐き捨てるように言い放った。

「私とあの男は母は違っても、同じ父親の元で生まれた異母兄弟だ。ならば似ていたとしても不思議はあるまい。それとも」

力任せにテーブルへグラスを叩きつけ、クルーゼがソファから立ち上がった。ゆっくりとディアッカの方へと近付いてくる。

「下賎な生まれの私がフラガ家の正当な嫡子であるあの男に似ているなど、ありえないとでも言いたいのか?」
「違いますッ! そんなこと、考えたこともッ」

唇を歪めるクルーゼに、ディアッカは何度も頭を振った。

「クルーゼ様はフラガ様と反対のご意見をお持ちの方なので、だから似てるなんて気付かなくて、それで!」
「あの男に逆らってばかりの私が、外見だけはあの男に似ていることに驚いた、ということか?」
「そんな意味じゃないです!」
「それではどういう意味だ?」

ただ「似ている」と思っただけだ。それ以上でも以下でもない。それなのに、どういう言葉で言い繕っても、クルーゼはそこから悪意を探そうとする。
フラガが言っていたのは、こういうことなのか。ディアッカは悔しさにぎゅっと拳を握り締め、俯いた。

「ご不快に思われたなら謝罪します。でも、本当にクルーゼ様が想像されたようなことは考えていません」
「……オマエはフラガ家の使用人だな?」

いきなり顎を掴まれ、顔を上げさせられた。鈍く光る仮面に、怯えたような自分の顔が写っている。
ディアッカはぎりぎりと顎に食い込む痛みを堪え、ぎこちなく頷いた。
痛みと唐突さに、その問いの裏に何があるかなど考える余裕もない。

「何故オマエのような人間がフラガ家で働いている?」
「どういう、意味でしょうか?」
「その肌の色。植民地の生まれだろう?」

クルーゼの指摘にディアッカは身動ぎ、クルーゼの手を振り払った。じりじりと後退り、クルーゼとの距離を取る。
クルーゼが指摘したとおり、ディアッカはフラガ家が植民地に持つ荘園の一つで育った。両親の顔は知らない。物心付いた時には荘園の農場で大人たちに混じって働いていた。
だが、残酷な程に素直な現地の子供たちは、ディアッカの持つ金の髪とスミレ色の瞳を指して「混血」と囃し立てた。頑迷な大人たちは、「異端の子」としてディアッカを爪弾きにした。
幼いディアッカが独りで生き抜くには、あまりに過酷な環境だった。
その境遇を哀れとでも思ったのか、現地で荘園の運営を任されていた人物が、任期を終え本国に戻る際にディアッカを連れ帰ったのだ。

「それが何だっていうんです?」

初めてこの屋敷に連れられてきた時、使用人たちはディアッカの外見に多少違和感を感じた気配はあったが、それを取り立ててあげつらうこともなく、新入りの使用人に対する当たり前の態度で接してくれた。
小さなディアッカにも出来る仕事を割り当て、上手くやり遂げた時には誉めてくれた。失敗した時には叱ってくれた。
肌の色が浅黒いこと以外は、人種的に本国の人間に近かったディアッカの外見のおかげなのかもしれない。
それでも、ディアッカにとって初めて触れた優しい厳しさだった。

「俺がどこで生まれたって、俺が今いるのはここだ!」
「主人に向かって使用人が大した口のききようだな」

唯一感情を露にするクルーゼの口元が、にぃと大きく上がった。

「私はずっと考えていた」

ゆっくりとクルーゼが近付いてくる。口元には笑みさえ湛えているというのに、剣呑な空気を隠そうともせずクルーゼが近付いてくる。
ディアッカはごくりと唾を飲み込み、震える足でクルーゼが近付いてくる度に後退さった。クルーゼが一歩進む毎に、ディアッカも一歩。
やがてディアッカの背中が壁に突き当たった時、クルーゼがディアッカの手首を捉え、捻りあげた。

「生まれた時から苦労も知らず、裕福な貴族の跡継ぎとして育ったあの男。その男だけを主人として仕える使用人たち。絵に描いたような頑迷ぶりに反吐が出る」

ディアッカは捻り上げられた腕の痛みを堪え、無言でクルーゼを睨み付けた。ここで引くとクルーゼの言った事全部を認めてしまうことになる。

「オマエは私とあの男が似ている、と言ったな」

捻り揚げた腕を引き寄せ、クルーゼはディアッカに囁いた。

「だが、あの男よりも私に似ている人間が他にいるだろう?」

思わせぶりに低く笑い、クルーゼはディアッカの腰に手を回した。

「誰だか、わかるか?」
「そんなの…… わかるわけない!」
「いずれわかる。そうだな、そう遠くないうちにわかるだろう。かわいそうに」

憑かれたように肩を揺らしてクルーゼが笑い出した。
笑って、笑って、気が触れたように笑い続けるクルーゼに、ディアッカは怖気だった。

「離せッ!」

本来ならば主人に対してあるまじき態度だとわかっていても、自制などできない。狂ったように笑うクルーゼが怖くてたまらない。ディアッカはクルーゼを突き飛ばした。

「どこへ行く。オマエが行くのはこっちだ」