─── まさか、本当に浦原なのか…?
海燕は、混乱に陥っていた。
だから、零れ落ちてしまったのだ。
「…浦原」
と、
まるで強請るような声が。
名も呼んでしまった。
海燕は、かっと顔が火を噴くのを感じた。
なのに浦原の影は、意に介した風もなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「さっきも言ったでしょ。アナタに会いにきたんですよ・って」
「…」
海燕は眼を細める。
こんな状況で、こんな態度を取れるふてぶてしさ。
やはり何もかもが、浦原すぎる。
なら本当に生きていたのかもしれない。
あの男のことだから、実験代わりにでもこの影を尸魂界まで送ってきたのかもしれない。
霊圧が感じられないのも、追跡を避けてのことだろう。
─── …もしかしたら、俺にだけ見えるのかもしれない。
浦原のことだ。
海燕の脳をいつの間にか弄くって、
何か怪しげな仕掛けを施していたのかもしれない。
だから自分のほかの誰にも関知できないのかもしれない。
ありえない話では、ない。
─── 本当に生きているのか。
海燕は、目の前の影をじっと見た。
見れば見るほど、浦原だった。
絶対ありえないと思えたその変化も、
あの事件に端を発しているとすれば、分からない話ではない。
「…海燕サン?」
浦原が不安げに首を傾げた。
急に浦原のことが哀れに思えた。
十二番隊隊長、及び技術開発局局長として、
魂を削るように研究に没頭していたころはそれでも、水を得た魚に見えた。
どんなに疲労していても、失敗したとしょんぼりしてみせてはいても、
土台のところには何か、絶対の自負のようなものが感じられた。
ヘタな同情などみせようものなら、
海燕ごときに何が分かるのだと侮蔑していた節さえあって、それが海燕にはひどく面白く思えた。
そう、あの頃の浦原には、
何もかもをその手で引き裂けば理解できるという、
子供のように残酷な無邪気さがあった。
─── それがどうだ。
あの傲岸不遜さがすっかり息を潜めている。
その魂の奥深くに隠してしまっているだけかもしれないが、どこか達観したような眼さえしている。
そのくせ諦めきれていない。
まるで熾火のような暗い光が燃えている。
負けたのだろうか、と思った。
あの事件で何があったかは知らぬが、
こうやってひっそりと姿を現すところを見ると、完膚なまでに負けたのだろう。
─── …ザマアみやがれ。
海燕は肩をすくめ、乱暴に斬魄刀を納めた。
ふんと鼻息も荒く、両腕を組んだ。
「…か、海燕サン、…どうしたんッスか?」
「どうもしねえよ」
「どうもしないって顔じゃ…ッ、」
刹那、海燕の斬魄刀が、浦原の影を切裂いた。
だが手ごたえがない。
浦原の姿も消えた。
「…ち、外したか」
気配もしない。
さては消えたか、あるいは逃げ帰ったかと思ったが、
「外したか、じゃないッスよ! もう、危ないなあ…」
と背後から素っ頓狂な声がした。
まさか背を取られるとはな、とため息をつきつつ振り返ると、
眉間の真ん中に、浦原の杖先が当てられた。
その切先には純粋な殺気が篭っていた。
「…なるほどな」
何を納得したものか海燕は、
雨傘の雫を振り払うような動作で血振りを行い、さっさと刀を鞘に納めた。
ひたりと当てられたままの杖先に構わなかったものだから、切れた眉間から血が一筋、流れた。
二人は言葉も無く睨みあった。
そしてしばらくの後、海燕は口を開いた。
「何だ。テメーやっぱ浦原だったのか」
明るい声だった。
海燕自身が驚くぐらいの。
「ひっさしぶりだなあ、オイ」
「分かってもらえて嬉しいッスよ」
浦原はにっこりと笑んで、仕込み杖を納めた。
だが間合いを計っているのが伺える。
その証拠にほら、視界の縁で、
爪先がゆっくりと地面を探っているのがかすかに視える。
それは海燕自身とて同じこと。
─── 変わらねえな。
海燕は肩をすくめ、仁王立ちになって動きを止めた。
浦原もそれに倣った。
変わっていないのだ。本当に。
海燕は一歩、間合いを詰め、手を伸ばした。
今度は避けられなかった。
ペタリと掌を頬につけてみる。
無精ひげでザラザラとしている。
その下の頬はこけている。
確かに質量がある。
ペタペタと頬も鼻も撫で回してみたが、霊圧はともかく、温度が無い。
まるで空気を凝り固めたような物体だと思う。
うんと近くに寄ってじっと見てみたが、どこにも不自然なところは無い。
少なくともその眼の輝きには。
「へえ、よくできてるな、コレ」
「でしょ? コレはですねえ、義骸作成時に発生するある物質を…」
「ほお、そりゃすげえ」
「イテテテテ、ちょ、海燕サンッ、聞いてないでしょッ」
「…んだ、痛覚はあるのか」
さっき刀を避けたのも、反射などではなく、斬られると支障があったということらしい。
「イデデデ…、もう! 抓まないでくださいって!」
頬や鼻を抓んでいた指を振り払われても海燕は、そのままじっと浦原を見つめ続けた。
痛いなあもうと、頬や鼻をさすっていた浦原が、その視線に気がついた。
海燕は、ひょいと浦原の帽子を取り去り、じっとその眼を覗き込んだ。
そして訊いた。
「オマエは、何だ?」
浦原は真顔のまま、
「ボクはボク、ですよ」
とだけ言って眼を細めた。
だから海燕は、相変わらずだオメーはと、その頭を思いっきり叩いた。
痛いなあもう、と頭を掻いた浦原の横顔は、少し照れくさそうで、
少しだけあの頃の真っ直ぐさを取り戻しているように見えた。
「なぁ、浦原」
「…?!」
海燕は、浦原の首に両腕を回した。
そしてその肩に、額を預ける。
「海燕、サン…?」
静かで優しい声がする。
こんな響きを耳にするのは初めてだと、
海燕はゆっくりと首を捻じって、浦原の顔を見上げた。
生憎の角度でその無表情をはっきり確認できなかったが、本気で困っているよう思えた。
─── あの、浦原がか…?
だからやはりこれは海燕の浦原ではないと思った。
だってほら、足元には短い影。
海燕一人分だけの影。
海燕は、少しだけ優しい気持ちになった。
「浦原。オマエ、臭い」
「すんません」
浦原は微動だにせず、心の篭らない謝罪をした。
その男の肩に鼻先を擦り付けると、湿った布の感触がする。
しっとりと濡れている。
「コレは…、雨の匂いか」
「こっちは台風ッス。月も見えない」
「そうか、」
現世に身を潜めているのか。
海燕は、ゆっくりと顔を上げ、今度は顎をその肩に乗せた。
浦原の向こうには、暗い森が広がっている。
それはまるで海。
音の無い海。
灰色に揺れている。
草が揺れて波に似た音がさざめく。
微かに雨の音が混じる。
きっと現世から運ばれてきている。
墨を流したような夜空には半月。
静かに浮かんでいる。
きっと百年前も百年後も、変わることはない。
「なあ、浦原…」
「なんですか、海燕サン」
「オメエ、バカだよなあ」
「ええ、知ってます」
背をゆっくりと撫で下ろされるのを感じて、
海燕は、そういえばこのじれったさは嫌いじゃなかったと思い出した。
「オイ、浦原」
「聞いてますよ」
「…俺は会いには行かねえぞ」
「つれないなあ」
「っせえ! テメーのせいでクソ忙しいんだ」
「ですよねえ」
それが現実とばかりにヘラリと笑われたので、
海燕は浦原を突き放し、挙句に頭突きを食らわせた。
「…痛ッ!」
頭を抱えてうずくまりそうになったところを、
襟元を掴み、思いっきり締め上げて立たせる。
浦原は、形だけでも苦しそうな様子を見せる。
だから海燕は、少しだけすっきりする。
そしてその喉元に齧り付く。
ぷつりと歯先が沈んだところから、血の味が広がった。
やけに塩の味がきつい血の味が。
─── どれぐらい泣かないでいると、こんな味になるんだろう。
海燕は大きく息をついた。
「…だからテメーが会いに来い。分かったな」
「へ…?」
だが
海燕の言葉に、ぱちくりと瞬いた浦原は、
あ、時間が、とだけ呟いて、その姿を消した。
突然のその消失に、海燕は呆気に取られ、ガシガシと頭を掻いた。
「…あークソ、なんだったんだ…」
空を見上げた。
月は相変わらずの半月。
だが夜気が清浄さを取り戻している。
虫の声もいつの間にか戻っている。
何があったのか語られることは無かったが、
結局あの男は、この世界に相容れなかっただけなのかもしれない。
─── んなこと、俺の知ったこっちゃねえ。
海燕は、大きく地面を蹴って歩き出した。
その足元に、薄暗い影が踊るように着いていったが、海燕がそれを見下ろすことはもう無かった。
2010.12 2009 10万hit企画 西島ぴーたさま
気狂いの陰の浦原と、陽の海燕の対比(あるいは衝突)というお題、「夏至」というシチュエーションでということでしたが、一年半以上もすぎて冬至近くになってしまいました。申し訳ありません。
分点、この話で取り上げたのは秋分点で、いわゆる秋分。
副隊長の席を断っていた頃の海燕は、その正しさが生む矛盾を、狂気という形で浦原さんに肩代わりしてもらってたような甘さがあるような気がします。ずっと一人だったから、同じく一人だった浦原さんってのがそりゃもう、何者かだったんじゃないかなあって。鰤世界での陽を一身に背負い、消えてしまった海燕さんの、一人になったときの弱さを書いてみたくなりました。浦原さんの黒すぎるところも最近はもうなんというか…!(爆)
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