それから幾許の時が経ち、力を使い果たした恋次は、大きく息をついた拍子に平衡を失い、深く積もった雪にうつぶせに倒れこんでしまった。
どくりどくりと波打つ脈動が、指先まで伝わってくる。
痛みは既に感じなかった。
先程までの後悔も嘘のように鎮まっていた。
刺すような雪の冷たさも気持ちよかった。
生きているのだと思えた。
─── 我ながら単純すぎるぜ。
笑いがこみ上げてくる。
これが自分の原点なのだ。
負けたのなら次に勝てばいい。
生き延びつことができたのなら、這い蹲ってでも次の機会を見つけるのだ。
油断した相手が喉元を見せたら食いちぎればいい。
見せないのなら、待てばいい。
そう仕向ければいい。
それが恋次のような野獣にとっての「勝ち」なのだ。
─── …ったく。変わらねえもんだな。
怯えつつもひたすら朽木白哉を追い続け、なんの因果かその副官として属すことにになり、直後にルキアを失い、黒崎一護に負け、朽木白哉に叩きのめされた。
必死で生き抜いてみれば、ルキアとの縁が戻っていた。
あろうことか、朽木白哉と情を交わすようにもなった。
抗えないものに流されている感覚が抜けない中、自分もすっかり「真っ当」になっていたと思っていた。
─── なのに、このザマだ。
恋次は吐き捨てた。
最初からどこか高貴な空気を纏っていたルキアと出会って、恋次は自分の魂の本質こそが唯の野良犬だと自覚したというのに、別世界の人間たちに囲まれただけでその気になり、尻尾を振り、従容と背後につくその立ち居地を受け入れるだけで、
どうして真っ当になれただなどと、みっともない思い違いをできたものか。
─── 俺は、魂の芯まで野良犬だ。
恋次は硬く眼を瞑った。
生き延びればそれで勝ちと思おうとする自分が、
自分の卑しさを境遇のせいにしようとするその根性が卑しいと思った。
隙をついて食い殺せばいいと自身を慰め、真実を見ようとしない自分の怯儒さと狡猾さが腹正しかった。
もうあの頃の子供じゃない。
当に消えてしまった仲間たちに託された想いなど捨て置いて、自分のためだけに勝ちたい。
我儘かもしれない。
汚いかもしれない。
だが見逃されて生き延びるだけでは、もう腹の奥底に巣食う飢えが満たされない。
あの朽木白哉を相手と定めたのなら、その眼に認められて勝たなければ意味がない。
野良犬風情が隙を突くような死に方は、あの男には相応しくない。
自分自身にも。
だからつまり。
─── 俺は、負けたんだ。完璧なまでに。朽木白哉にも、自分自身にも。
認めてみればそれこそが真実。
だからこそ此処で立ち止まるわけには行かない。
恋次は、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
─── いつか勝つ。絶対、超えてみせる。
ギリリと噛締めた口の中には血が溢れていたが、先程までの憤りは、恋次の面からすっかり影を潜めていた。
─── 一体、何が悪かったのか。
次に勝つと定めたからには敗因を知りたい。
恋次は、白哉との闘いを思い返した。
ついにその時が来たのだと高揚感に身を任せたのはただの一瞬、心を無にして立ち向かったはずだった。
絶対勝つのだと、気力も霊圧も充実していた。
巨大な卍解を操る術にももはや不足はなかった。
自惚れてもいなかった。
油断もしていなかった。
もちろん白哉の眼にも、一点の曇りもなかった。
刃向かう恋次を切り伏せようという意思が、体表にまでビリビリと伝わってきた。
立ちはだかるものは容赦なく屠ろうとする、あれもまた獣なのだ。
その眼を思い浮かべた恋次は、ぞくりと背筋を駆け上がる何かを感じた。
そして愕然とした。
ある可能性に思い至ったからだ。
─── まさか…、まさか情に溺れたのか? この俺が?!
本気の白哉を目の前にして、怯みはしなかった。
だが、その眼を欲しはしなかったか?
白哉に対する想いに囚われてはいなかったか?
─── ち、違う!
己だけでなく白哉も同様と、心の隅で思い上がってはいなかったか?
だから恋次を本気で殺しにはこないだろうと油断していたのではないか?
─── 絶対違う! 俺は決して…!!
だが完敗したという現実を前にしては、反証する術などない。
恋次は歯を食い縛った。
─── マジかよ?! …んだそりゃ、みっともねえ…ッ!!
恋次は怒気をみなぎらせた。
あるわけがない。
少なくとも自覚は全く無い。
だが万に一つでもそれが事実だとしたら、永遠に白哉に勝てるわけが無い。
いくら牙を研いでも、その牙を突き立てることに迷いがあるのならば、闘う意味さえない。
ましてや自分を殺しに来る男を欲してしまうなど。
闘うその瞬間でさえ焦がれてしまうなどと。
恋次はぶるりと身を震わせた。
己の裡を占める白哉の存在の重さに、今さらながら愕然とした。
─── クソ…、いっそ六番隊ごと辞めてやるか?
それはひどく真っ当な考えに思えた。
今まで思いつかなかったのが不思議なぐらいだった。
そもそも馴染みすぎたのだ。
その背を見つめることに。
その腕に抱かれることに。
─── 要するに、自分を見失ってたって訳か。
恋次は自嘲した。
ならば、まずは一人になって、また一からやり直すしかない。
そしてあの男をきっちりと倒すのだ。
今日はこれまで。
明日からは明日からの道を。
恋次は頭上に広がる枝に手を伸ばした。
舞い落ちてきた雪が、ひらひらとまとわりついた。
奇麗だと思った。
やり直せるかもしれないと思った。
だが、雪の一片を受けようとした手が、意思に反してぱたりと落ちた。
力が篭らなかった。
視界もはっきりしない。
闇空に浮かぶ月もぼんやりとしている。
眠くてたまらない。
─── やべえ…。
血を流しすぎた。
千本桜につけられた傷も、即座に命を失わなかったことが不思議なぐらい深い。
しかも癒えないうちから存分に刀を振るい、挙句に雪に埋もれていた。
限界まで霊力を振り絞り、卍解を強制的に打ち砕かれた後だから、死神どころか、唯の魂魄以下の霊力しか残っていない。
つまり見つけてもらえる当てはない。
このまま意識を手放せば、おそらく死ぬ。
怖くはないが、負け続けたまま意味もなく野たれ死にするなど真っ平御免だ。
「ク…ソッタレがぁ…ッ!!」
恋次は、気力を振り絞って体を捻じった。
うつ伏せになって雪の中に腕を立てると、
傷口から滴り落ちた血が、白い雪に染みをつくった。
蛇尾丸にすがり膝を立て、ゆっくりと立ち上がると、眩暈がした。
視界が揺れて足にも力が入らない。
だが雪が止んだのが幸いしたのだろう。
倒れそうになりつつも、己がつけた血の跡を見つけることはできた。
どれぐらいの距離があるのかはしれないが、辿れば少なくとも隊舎近くまでは戻れる。
「…クソ…」
だが足が動かない。
一時は麻痺していた腹の傷の痛みもぶり返した。
一瞬でも気を抜くと、気を失って倒れそうになる。
それでもなんとか一歩踏み出したが、杖代わりにしていた蛇尾丸が酷く軋んだ。
─── そっか、コイツもボロボロだったんだな。
恋次は、蛇尾丸に預けていた体重を戻した。
平衡を失った身体は、仰向けに雪の中に倒れた。
もう指一本、動かなかった。
朦朧とした意識の中で恋次は、手の中の蛇尾丸に悪かったなと呟いた。
恋次と同じく瀕死の蛇尾丸は、何の応えもよこさなかった。
走馬灯が廻る。
見知った人々の顔が過ぎる。
抱えたままの想いが去来する。
虚ろな生の中で重ねた全てが過ぎ去っていく。
こんなつまらない幕引きかと捨て鉢になる自分と同時に、安堵する自分もいる。
けれど、やはり諦めきれない。
思い浮かべてしまうのは朽木白哉の姿。
その眼も、その指も、どんなに求めても、いくら触れても、ついに届くことがなかった。
振り向かれることもなかった。
なのに死に際の、精一杯の虚勢を張って拒否しようとしてるときに限って、こんなに近くに姿を現す。
しかも真正面から覗き込んでくるなど、性質が悪いにもほどがある。
─── チクショウ…。
恋次は、上がらぬ腕に力を込め、指先を微かに動かして、蛇尾丸を探した。
そして渾身の力を奮い、いまや視界いっぱいに広がる朽木白哉の幻に斬り付けた。
避けられると思ったのに、その幻は恋次の刃を掌で受け止めた。
雪よりも白い掌に、鮮血が流れた。
やっと一太刀喰らわせたのだという想いよりも強く、奇麗だと思った。
今まで目にした何よりも鮮烈だった。
うっとりと見蕩れていると、その幻は口元に満足げな微笑を浮かべ、よかろう、と言った。
だが恋次には、何がよいのか、さっぱり分からない。
幻だろうと何だろうと、白哉は白哉なのだからしようがないと、その肩の向こうへと視線を移した。
輝くのは遠く遠く小さく白い月。
それを取り囲む暗い夜闇。
そして手前には、雪を積もらせた木々の枝。
まるで今が盛りと咲き誇る桜の枝。
あるいは千本桜。
風に揺れたか、はらり、はらりと雪片が降り落ちてくる。
─── 遠いな。遠すぎたな…。
恋次は手を伸ばした。
すると強い声がした。
「欲しいのは此れか」
差し出された手には、雪を積もらせたままの一枝が握られていた。
血が流れて枝を伝い、恋次の頬に落ちた。
なんでこの人には全て分かってしまうのだろうと、その温かい感触に恋次は眼を瞑ろうとしたが、上半身を抱き起こされ、頬を思いっきり叩かれた。
夢にしては現実的すぎると眼を開けてみると、ほっとした白哉の顔がすぐ近くにあった。
この人でも焦ることがあるのかと、どこか他人事のように思っていると、
「強くなろうと足掻いているのは貴様だけではない」
と白哉は酷く苦しそうな顔をした。
つまるところ、恋次が完膚なきまでに負けたのは、先の闘いより白哉自身の強さが増幅したせいであって、恋次自身の不備ではないと言いたいらしいと察し、安堵する自分自身に恋次は苦笑した。
こんな言葉足らずでは、誤解されてしまうのにと危惧する自分も滑稽だった。
だから恋次はその血塗れの手を取り、眼を閉じた。
そして柔らかく頬を撫でる風に、そっと、まるで散りかけの花のように運ばれる自分を哀れに思いながらも、とても温かく感じた。
例え、永遠に負け続けることになろうとも、決して離れられないのだという苦い想いと共に。
2009 10万hit企画 モミさまへ
白恋で、買ったものじゃない花を白哉からプレゼントされる恋次というリクエストをいただいたのですが、雪月花っぽいものを書きたくなったので、なんか全く違う方向に…。プレゼントというか、むしろ手向け?
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