「100title」 /「嗚呼-argh」
魚
情事の後の一護は、言葉を失う。
目も合わさず、するりと腕をすり抜けて闇へと消える。
その様は、狩りのいろはも知らぬ幼い頃に捕り逃したあの魚に似ている気がする
捕まえることなどとても容易く思えた。
腹を抉るような飢餓を押さえ込み、真昼の陽光をきらきらと反射する水面の奥、水に溶かすように両手を差し入れた。
匂いで感づかれないように、急な動きを警戒されないように、およそ考えられるだけの策を立てて、川下でその魚が近づくのを待った。
すると魚は俺の手に乗った。
信じられなかった。
けど嬉しかった。
動いちゃいけない、逃げてしまう。
けどもっと近くで見たい。
なんて美しい生き物。
そっと掬い上げるんだ、気づかれないように、そっと、そっと。
飢餓さえ忘れ、水ごと掬い上げることができて嬉しさで心が弾んだその時、ぱしゃんと魚は跳ねた。
掌に残ったのは僅かに、体表を硬く護る鱗の感触。
なめらかに体を捩って、淀んだ掌の水溜りから、流れ続ける水流へとその魚は消えた。
一瞬の出来事だった。
けれど瞼の裏には、陽光を反射した背の虹色が残っていた。
不思議と空腹は消えていた。
改めて
思い出してみると、なんだ、ハッピーエンドってやつじゃねえか?
あんな小さな魚、どうせ食えたもんじゃねえ。
理由はわからねえが、腹も持った。
あの後、どうしたんだっけな。
相手もなく腕枕をしたまま残されていた腕を引き戻し、頭の後ろに組んで天井を見る。
すると、一護の部屋に一人というこの状況がいやに空しく感じられる。
さて、どうしたものか。
一護は階下に行ったっきり、戻ってこない。
毎回、毎回、こうでは、逢瀬の度に何を重ねているのか、
もしかして無理強いしてるのか、それとも後悔させてるのか、気になって仕方がない。
とはいえ流れに乗って迎えた結末がこれなのだから、今更どうしようもない。
宙に手を掲げてみると、今でも甦るあの感触。
さらりと指の腹を撫で上げ、消え去ったあの魚。
残ったのは、掌で温くあたたまった水。
そうだ。
まるで遊んでやったのだといわんばかりのその態度に、真剣さをからかわれた様な気がして、俺は哀しくなったんだ。
けれどそんなこと、魚相手に思うのが悔しくって、感情ごと記憶から消そうとしたんだ。
バカだよなあ。
否定しても事実は残るんだ。
ほんっとにガキの考えるこたぁ訳わかんねえ。
瞼の裏を、ついさっきまでこの腕の中でもがいていたもう一人のガキの姿が過ぎり、俺はこみ上げてくる何かを抑えきれない。
「オイ、何、笑ってんだよ」
「一護」
「ビビってんじゃねえよ」
薄く苦笑した一護は、するりと布団のなかに潜り込んだ。
いつの間に戻ってきたのか、全く気がつかなかった。
夜はいつもそうだ。
日中はあんなに騒々しい少年の顔は影を潜め、まるで別の一護が出現したような、そんな錯覚を覚える。
「一護」
ため息代わりに名を呼んで、その首の下に無理やり腕を通すと、
「なんだよ」
と不機嫌そうな声が返って来る。
何がそんなに嫌なんだ。
問いただしたくなるが、それを我慢して、じっと待つ。
だって俺たちはまだ、何も固まっていない。
この世の理を無視してこうなってからの逢瀬の回数さえ数えるほど。
男同士で、在り方さえ異なるんだ。
俺よりうんと年若い一護が、状況を納得するのに時間かかっても仕方がない。
そうわかってた筈じゃねえか。
「・・・何でもねえよ。寝ろ」
「煩せェ、言われなくても寝る」
言葉通り、すとんと眠りに落ちた一護は、まるで陸に打ち上げられた魚のようだった。
乾いた唇、疲れが色濃く残る目元、そして記憶の中の掠れた喘ぎ声。
明日の朝にはどれもすっかり消え去るとわかっている。
けれど安心する代わりに悔しいと思うのは、俺がムダに年を食っているせいか。
そっと髪を触ってみると、この寒空でかいた汗が残っているようだ。
いつもより柔らかい気がする。
どうすれば一護にこの手が届くのだろう。
流れに逆らい、体を翻し、我が物顔で世界を泳ぎ回るこの生き物。
触れたと思った瞬間に消え去る。
いつか冬が訪れたときに、凍てついた氷を割って、底で眠るのを引き上げればいいのだろうか。
けれど熱い掌で触れたら、あの虹色の鱗は焼け焦げてしまうかもしれない。
乾ききって、呼吸さえ失うかもしれない。
ならば俺にできることはない。
俺は、一護に気づかれないようにそっと半身を起こした。
窓の外には月が煌々と輝いている。
全く、冬の空ってのは、空気が澄みすぎてていけねえ。
顔に張り付いた髪をかき上げて布団を出ようとすると、俺にそっと触れるものがあった。
それは眠る一護の手。
軽く握られた拳は何かを掴もうとかすかに動き、その柔らかい温もりに、俺はもう動くことができない。
逃げることさえできない。
だからやっと俺は悟ることができたのだ。
あの魚は一護じゃあない。
あれは俺だ。
今は一護の掌の底で、水面を眺めて待っている。
けれど何を?
もう引き返せない。
遠く水流を離れてしまった今は、自分の意思で戻ることなど敵わない。
ならばここを終の棲家と決めるか?
自問しても答はない。
生きる時が違いすぎる。
住む場所が違いすぎる。
合わせた手を一護が離せば、俺は空に放り出され、乾いて死ぬだけだ。
これが理を無視した罰かと空を見上げても、月は輝くだけで違う未来は見せてくれなかった。
>>消える
<<back /
web拍手