鴉の理 4
 



「・・・俺を、殺すっていうのか」

やっとのことで搾り出した声は、低く掠れていた。
闇の中、格子を通して突き出された白い腕、黒い文様。
距離を置いたそれに何が出来るわけでもないのに、
俺は何を怯えているのだ、と一護は下唇を噛んだ。


だがこれは生理的な恐怖。
薄気味の悪い、自分の力では何も出来ない何かが漂っている。


「殺すなんて、そんなブッソウなこと言ってねえだろ?」

また影が笑った。
楽しげに、悪い冗談でも聞いたように。
影が体を震わせるたびに、漆黒の長い髪が騒めいた。

「来いよ。俺に何が出来るってんだ、こんなんだぜ?」

皮肉な、それでいて余裕たっぷりの笑みがその顔に浮かんだ。

「ほら、一歩。そう、もう一歩前に出るだけでいい。
 ずいぶんと寂しいモンだったぜぇ? 一人でさ?」

一護の脳裏に、一人閉じ込められた影の姿が過ぎる。
長い間一人座っていた影。
白い骨が周りに降り積もるほど。
ずっと、寂しかったんだろうか。

「ほら、一歩でいい。そうだ、もうちょっと・・」

・・・白い、骨?
一護は正気に返った。
骨があるということは、死体があったということだ。
コイツは、この紅い眼の影は何をした?
その白い牙で、何をした?!

ずざっと一護は飛びのく。
だが遅かった。
影の腕が格子に深く差し込まれ、ぐんと一護に向かって伸び、その手を捕まえた。

一護の腕に、黒い爪が喰い込んだ。影の勝ち誇った忍び笑いが響く。
ジリジリと掴む手が力を増し、一護の腕の皮膚から血が滲み出る。
血流が阻まれ、手が痺れ、一護は思わずうめき声を上げた。

ぽたり、と血が地面に落ちた音がした。

「ああ、もったいねえ、落ちちまった」

焦れた声が響く。
耳元に息がかかり慌てて見上げると、いつの間にか格子越し、至近距離に影は居た。
眼を見開いたまま動けない一護に、影の訝しげな視線が降り注ぐ。

「オマエ、何モンだ・・・?」

よく見ると、影の紅い眼は焦点があっていない。
何を見ているのか知らないが、自分を見ていない。
自分の向こうの何かを見ている。
一護は眉をひそめた。

「俺は俺だ。それがどうしたってんだっ」

叫んだ勢いのまま、腕を影の手から引き抜く。
びっと嫌な音が、続いてびちゃっという水音がした。
血の匂いが当たり一面に広がる。
一護の腕は、影の鋭い爪に引き裂かれていた。
ジンジンと脳天に響く痛みに、一護は苛ついた。
その腕を庇うようにして、一歩、また距離をとる。
指を伝ってポタポタと血が地面に落ちる。

「・・・どうもしねえよ」

先ほどまでの笑いを潜めた影は、静かに腕を格子の内側に引き戻した。
白と黒の残像が、一護の視界に残る。
格子の枠には血の痕。

「どうもしねえけどよ」

格子の向こう、影が一護を見下ろしていた。
先ほどまでの異様な雰囲気も、笑いも、紅い眼の光さえも消えていて、
小さくなったように見えた。

影は自分の掌を見つめた。
薄暗がりの中に、どろりと赤黒く一護の血が指を伝っている。
それを見つめる表情は静かで、そして酷く辛そうで、
傷つけられたのは自分だというのに、一護は哀れさに似た何かを覚えた。

「すまねえな」

影は小さな声で、でもはっきりとそう言った。
そして次の瞬間、ざわり、と空気が生き物のように蠢いた気がした。

「テメーを、喰う」

影は指についた一護の血を舐め上げた。
舌が、薄明かりを反射してぬらりと煌く。
ぴちゃ、という微かな水音が一護の耳にも届いた。

「気にいらねえんだよ、その眼がよ」

影は眼を見開いて、笑った。
その瞬間、一護は、轟々と響く風の音を聞いた気がした。



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