鴉の理 5
一護が見守る檻の中、影の紅い眼が輝きだした。
先ほどまでの鈍い赤銅色ではない。
爛々と輝く強く紅い光。
一護はその眼に飲み込まれるような錯覚を覚えた。
だがそれも一瞬、ぐらりと影の体が音を立てて床に崩れ落ちた。
それを追うように漆黒の長い髪がふわりと宙を舞い、細い影の体を覆う。
白い骨の欠片が弾けとび、潰れ砕けた白い粉は宙を舞う。
その白い霧の向こう、一護の目の前で影が変貌していった。
最初は錯覚だと思った。
だが確かに髪が色を変えてきている。
それは血の真紅。髪の先から漆黒の色を侵食していた。
そして影自身の眼と、或いは一護の血と同じ色に髪が染め上がった刹那、うずくまったままだった影が叫びだした。
それは獣の咆哮。空気を震わせ、洞全体を圧する。
真紅の髪の下からふらりと姿を現したのは、血肉を纏った大柄の男。
先ほどまでの、どこか虚ろな姿は跡形もない。
天を仰いで長い髪を掻き毟り、吼え続けるその姿。
力が漲り筋肉が捩れ血管が浮き出す。
体表に描かれた不可思議な文様が生きもののように蠢く。
一護は声もなく、その異様な光景を見つめていた。
◇
記憶は痛みに似ている。
朦朧とした意識の中、影は思った。
久々の贄の血を受けて得た束の間の命。
それを謳歌するはずだった影を襲ったのは、当の昔に捨てたはずの記憶の欠片。
まるで金属片のようにキラキラと輝き降り注ぐ。
皮膚を破り、肉を切り裂いていく。
鬼、と。
そう呼ばれたのはいつの日のことだったか。
覚えているのはあの夕陽。
背に受けて感じた赤く燃え上がる夕焼け空。
区別なく全てを真紅に染め上げた。
一面の骸もそれに群がる鴉や野犬も緑の木々も名も無き花々も、何もかも光が無表情に覆いつくした。
あれは福音だったのかもしれない。
意味なく消えてしまった命への。
だがそれを分断するのは鬼の影。
躍動していた命をただの肉の固まりと変えた彼自身の影。
最後の光を得た骸たちを無情に貫くその断裂。
次々と蘇る記憶の断片に、影は我知らず叫び出していた。
そう。
俺は確かに鬼だった。
血塗れで、ただ殺戮を続ける許されざる者だった。
いたぞ、見つけた殺せという叫びが遠くに聞こえる。
何を殺すというのだ。もう殺すものなどない。
命など、当の昔に血と共に流れ果ててしまっただろうよ。
お前たちには見えないのか?
面を上げると、手に手に得物を振りかざし駆け寄ってくる一団。
白刃とはもはや呼べぬ錆ついて赤黒く汚れた刀が、沈みかけた陽の光を反射している。
あの人なら蔑んだだろうよ。
そんなものを武器とするぐらいだったら素手を選んだろう。
魂の芯まで高貴で、だからこそあんな最後だった。
記憶の中の貴人が背を向ける。
だが俺は獣、俺は鬼。
お前らみたいな下衆にやられて堪るか。
生き延びてやる。
そして命を繋ぐのだ。
この手から零れ落ちてしまったあの輝きを。
影は側の死体から刀を奪い取って大きく構えた。
だが歯軋りが漏れる。
そこに在ってはならない者の姿を見つけたからだ。
なぜお前がそこにいるのだ。
お前も俺を殺しに来たのか。
お前だけは分かってくれてると思っていたのに。
けどその眼。泣き出しそうじゃないか。
刀を握る手にも肩にも力が入りすぎだ。それでは俺には勝てない。
馬鹿だなあ、相変わらず。
嗤いが漏れた。
だがな。
俺はお前にだって殺されるわけには行かないんだ。
悪いなあ。
お前も殺すよ。
鈍ら刀を握り返した後の記憶は曖昧。
かすかに覚えているのは飛び散った血飛沫。
とめどなく流れ落ちる赤い赤い血。
夕陽を浴びて黄金色に輝いた。
命が流れ落ちた。
あの時確か、俺は笑っていたと思う。
混ざり合う赤に、鬼も獣もましてや人もないのだと知って、心の底から笑ったのだと思う。
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