鴉の理 7
 



影がその手を離すと、一護の体はどさりと地面に落ちた。
意識は既にない。薄く開いた目に覗くのは、開ききった瞳孔。

「・・・・楽になったか?」
影はそう呟いて横たわる一護を見下ろし、その短かった生を想い瞑目した。


ここに鴉に導かれて来るということは、本人が意識しているいないに関わらず、死を望んでいるということだ。
そういう輩でないと、あの鴉は見えない。
そもそもこの世の生き物ではない。
いつの頃かこの洞に姿を現し、影の血肉を喰らっては飛び去る。
その見返りに餌をつれてくるのだ。
死を望む獲物を。

死を望むという表現は正確ではないだろう。
負いきれないものを負ってしまい、その生から離脱したがっているということだ。
あるものは罪を、あるものは悔いを。
その重さに疲れ果てながらも、諦めきれずに軋む身体で足掻く。
忘れてしまえればいい。忘却は福音だ。
だがそれができない不器用なものは、苦しみに耐え切れず、いつしか救いを捜し求め始める。
自己破壊や逃走を図るものもいる。他にぶつけるものもいる。
そして気づくのだ。
そこには何もない。
戻れない、進めない。
救いもない、罰してくれるものもない。
だから絶望に身を浸す。あるいは狂う。
己を解放して、足掻くことを止めて、楽になるのだ。
時間を殺し、自分を殺し、未来も可能性も全て消え去るまで、
終焉を迎えるその時まで、身を強張らせたままただ待ち続けるのだ。

影自身もその一人。
いや、正確には彼自身が始まりだった。




ずっとずっと昔。
まだ影に名前があったころ。
命知らずの勇猛な武将と名を馳せた彼は、人ではない、鬼だと国中で囁かれるようになった。

曰く、敵も味方も区別がつかない。
曰く、戦いの後に死体を貪り食っている。

噂は国中を駆けた。不穏な空気が満ちた。
けれどもあまりに武勲が過ぎたため、時の国主は彼を手放せずにいた。
彼の狂気は、混乱を極めていた時勢ゆえに重宝された。
死を厭わず人を狩る姿は狂っているとしか見えなくても。

彼が完全に狂気に身を浸したのはいつのことだったか。
影自身もは覚えていない。
ただ全てを消し去るべく、眼に映る全てのものを殺した。
人も獣も区別なく叩き潰した。
その瞬間は満足しても、残るのは乾いた刀。
いくら血を吸っても足りなかった。いくら殺しても飽き足らなかった。
やげて彼自身が血の香りをまとうようになった。
追っ手が繰り出され、彼は虜囚の身となった。
犯した罪はあまりにも大きかったが、同時に標的となった敵方の被害も甚大。
それまでの国への貢献度も群を抜いており、情状酌量を申し出るものもなぜか後を絶たなかった。
処刑方法が論議の的となり、苦慮した国主は彼を幽閉した。
時が彼を忘れ去るまで、と約束して。



「・・・・すっかり忘れてたなあ」
影は木の根の格子に手をかけた。
指先にまで入った墨の文様が威嚇する蛇のように身を震わせている。
否、震えているのは文様ではなく彼自身の手だった。

「・・・・なぜ」
ぐっと両手に力を込める。
「なぜ、俺は生きている」
渾身の力を込めて左右に開くと、木の根の格子はみしっと音を立てて裂けた。
「なぜ、殺さなかった」
格子を押し開き、その間に影は体を入れた。
「・・・・・なぜ、殺してくれなかった」

答はわかっている。
彼は贄にされたのだ。



止むことのない争いと荒廃がこの土地の病だった。
そもそもこの土地は名高い豊饒の地。
豊かな土壌と穏やかな気候に恵まれ、土地の利もあった。
それ故、どこの国主も手に入れたがる。
不幸だったのは、周辺国の力が均衡していたこと。
故に常に争いの種となり、また戦場となった。
他の地が安寧を得て尚、人心も土地も荒れたまま落ち着くことがない。
更に、周辺国の国力は続く戦で落ちる一方。
これでは立ち行かぬと、この地を中立地帯として共同統治する運びとなった。
長く続いた争いも一段落すると見て、先の国主は影を贄と定め、戦意がないことを各国に示そうとした。
この地での盟主となることをももくろんでいたのだ。

各地の国主が集まり、和睦を行った。
その一環として祈祷を行い、陽と陰の主脈が交わり収斂するこの地に影を密かに封じた。
人柱として。
争いの、狂気の象徴として。
人々は歓声をあげた。

だが、国主の望みはかなわなかった。
数ヶ月と待たずに戦いは再発し、隣国に攻め込まれたのだ。
戦いの最後の地となったのはやはりこの地。
落ち延びた国主は、影を封じたこの場所が洞であることを思い出し、逃げ込んできた。
そしてありえないものを目にしたのだ。

「何故・・・。何故、貴様は生きているっ?!」

血走った目を見開いて国主はかつての部下に食って掛かった。
そもそもこの男を手放したのが不幸の発端。
影に頼り切った戦法に慣れきっていたのだ。
そのため敗戦を重ね、次々と領地を失った。
転がりだした戦況を覆すことはならなかった。
そして国は滅びたも同然。

だが、どうだ。
死んだと思っていた影は生き延びていた。
苔や流れ込む水、そして時たま紛れ込む生き物で食いつないでいたのだろう。
骨と皮にやせ細ったとはいえ、その眼は狂気を宿したまま光り輝いている。

「よお、親方さんよお。アンタの方が死にそうじゃねえか? 裏切られたか? 国ごと潰れんのか?」
「喧しいっ」
「悲しいなあ」

くつくつと笑ってみせる影を目にして、国主はかつてのこの男の働きを思い出した。

「貴様、わしともう一度手を組まんか?」
「・・・アンタと?」
「ああ、落ち延びて国を再興する。そのためには貴様が必要だ。ああ、そうしよう。出て来い」

虚をつかれたか、影はまんじりともしない。
焦れた国主は、格子に腕を差し込んだ。

「来い、恋次。わしを逃がして見せよ。勲は思いのままぞ」

くつくつと笑ってみせる木の格子の向こうの彼の異変に国主が気がついたのはその時。

「・・・なんだ? その入れ墨は?」
「ああ、アンタは知らなかったんだっけ。これは呪だよ。あの祈祷師たちがたっぷり彫っていってくれた」
「・・・呪?」
「贄だってよ、俺は」

そう言って、恋次は国主の腕をぐいと引き、国主は格子で強か顔を打った。
血が流れ落ちる。

「貴様、わしを裏切るのか・・・っ!」
「裏切ってねえよ?」

恋次は国主の腕に齧りついた。
叫び狂うのを無視し、血を啜る。

「貴様、狂っておるな?!」
「知らねえなァ。それより俺ァ腹減ってんだよ」
「わしを食うというのかっ」
「喉も渇いたなァ」

恋次は格子の隙間から腕をさし伸ばし、かつての主の首を掻き切った。
流れる血を口にし、嘗ての主の口から零れ落ちる呪詛を浴びたとき、意識が遠くなった。
間際に、彼を封じた呪術師の言葉を思い出した。

裏切りを重ね、禁を犯し、報いを受けることになるだろう。
救いの輪から外れるだろう。
咎人の罪をその身に負って、苦しむこととなるだろう。
そう憎憎しげに繰り返した呪術師。
先に戦で子供を亡くしたのだと、儀式の前に恋次に怒りをぶつけていた。
それを恋次はせせら笑ったのだ。
ただの私怨じゃねえか、と。
呪術師は冷たく応えた。

贖え、と。



「全く、タチの悪ィヤツラだよ。殺せといったり贖えと言ったり」

そう笑って恋次は影となった。
この世のものならぬ、次元の境に住まうもの。
人々は決してこの地に近づくことはなかった。


かの地が平定されたのは、それから間もなくだった。





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2007.09 国主はオリジナル。だから名前がない。もちろん全部妄想。そんな事実も風習もありません。
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