鴉の理 8
影は檻の外に出た。
あれからどれほどの年月がたち、幾人の血を啜ってきたのかもはや見当もつかない。
だがもう檻を出たのだ。
最初で、おそらく最後でもあろうこの機会。
今後、この子供より強い力を持つ生贄は現れないだろう。
だから今、この洞から外へ出るのだ。
何度も何度も重ね塗りをするように思い出し過ぎて、もはや原型をとどめていない記憶を確かめに。
あの太陽を、空を、そして風を全身に浴びるのだ。
そして確かに遠い昔、生きていたのだと。
狂気に陥る前、確かに人として泣いて笑って、
そうやって生きていたことを、一瞬でいいから実感したかった。
そしてもうこの生と縁を切りたい。
気が遠くなるような長い年月の果て、
影にわずかに残った望みは、それだけだった。
影はその手を出口のほうへ、光の射すほうへと伸ばした。
そのとき、ガァと鴉の声が洞中に響き渡り、
警告にも似たその響きに、影の歩みが止まった。
「・・・・待てよ」
足元からかけられた掠れた声に、影は驚愕した。
それもそのはず。
確かに死んだはずの一護が、地面に這いつくばったままとはいえ、
影の足首をしっかりと掴んでいた。
「てめえ・・・・、まさか生きているのか?!」
「悪かったな」
そういって一護が顔を上げた。
蒼白ではあるが、その眼はきつく影を睨みつけてきている。
「・・・・・はっ! そうかよ。なら今度こそちゃんと息の根を止めてやるぜ!」
「テメーに出来んのかよ?」
「強がってんじゃねえ。死にかけじゃねえか、あァ?!」
影はしゃがみこんで、一護の髪を鷲掴みにし、宙に引き上げた。
痛みに呻いた一護だったが
苦しい息の下、それでも影から視線を外さない。
「てめえみてえな死に損ないに俺が負けるってか? 笑わせんな!!」
「・・・そうじゃ、ねえよ」
両手を湿った土の上において、半ば正座のような格好で一護は体を支え直した。
「もう十分だって言ってるんだ」
「・・・? どういう意味だよ」
影はまじまじと一護を見た。
姿かたちこそ同じだが、先ほどまでのいかにも少年といった雰囲気が掻き消えている。
似てはいるが、中身が色を変えたような気がするのだ。
「俺のことがわかんねえのかよ、恋次?」
見つめてくるのは、同じ薄茶の不思議な色の眼。
どこか深い色を湛えた、いつかどこかで見たことのある眼。
その眼に影は、確かに何かを思い出しかけていた。
「・・・待て、今、てめえ何て言った?!」
「何度俺を殺せば気が済むんだって訊いてんだよ、恋次」
その声音と呼ばれた名に、
古い記憶に沈んでいた人物の姿が、目の前の瀕死の少年の輪郭に重なった。
ただの既視感ではなかった。
その人物の姿が、今はっきりと此処に在るのだ。
最後は血まみれになって殺し合い、影と重なり合うようにして息絶えて行ったあの男の姿が。
「思い出せよ、恋次」
失くした名が、二度と聞けないはずだった懐かしい声で呼ばれ、洞中に木霊して恋次の耳を劈いた。
恋次は一護から手を離し、後ずさった。
そして影に堕ちて輪郭を失くしていたはずの恋次の魂は、
かつての名とともに形を取り戻してどくりと強く蠢いた。
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2008.04 連載再開
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