◆注意◆ 流血表現があります。苦手な方はご注意ください。




鴉の理 10
 



「恋次・・・」
近づいてくる一護の肌に蠢くのは墨の蛇。
恋次のそれと酷似したその紋様は腕に絡みつき、白い布に一旦影を潜めて
さらには首から頤、頬から目元へと蛇のように這い登ってきていた。
そして眼までも漆黒の闇に深く翳り始めていた。
「お前・・・、止めろ! 待て!!」
恋次は、侵食を止めようと必死で叫んだ。
一護はその闇に近すぎるのだ。
飲み込まれたら、二度と戻ってこれない。
恋次は恐怖した。



そう、恋次は知っていた。
自分よりも、一護が身の内に飼っている闇のほうが深いと。
圧倒的な強さを誇りながらも一護は常に、闘いに飲まれる自分自身に迷い、怖れていた。
闘争本能に導かれるまま、命の遣り取りに耽溺する自分を嫌悪してもいた。
それでも己の闇と向き合い、己というものを維持し続ていた。
恋次は、何気ない表情の向こうで潰れそうになる自我と戦いつづけてる一護を知っていた。
言葉にこそしなかった。
だが恋次は、前に進むことでしか己の闇と線引きさえできぬ我を思うと、
一護に憧れ、羨み、憎み、そしてどうしようもなく魅かれる自分を止められなかった。

だからこそ、決別を決めたのだ。
自分の方に、敗北者の惨めな側に、一護を引き入れてはいけないと。
旧友だろうが見知らぬものだろうが、
そこに助けを求めるものがいれば、一護は手を差し伸べずにはいられない。
だから恋次は、狂気の淵を転げ落ちながらも、そんな自分に恐怖しながらも、
助けは絶対に求めぬと誓い、魂に刻み込んだのだ。
そもそも此れは恋次が自身の咎で陥った道。
救われたいと、助かりたいと思う気持ちを自分で認めたら、
その時一護は、命を賭してでも恋次を助けに来る。
恋次もそれを、心の底からは拒否できない。
ギリギリで縋らないとは保障できない。
一護なら、助ける手段がないと知っていても諦めないだろう。
そしてせめて恋次だけでも助けようとするだろう。
誰よりも危ういのは一護自身だと、自分でわかっていても、それでも恋次を助けに来るだろう。
それが一護なのだから。
そしてそれに恋焦がれ続けたのが恋次なのだから。
堕ちるべき先まで定められた恋次にとって、一護はもはや聖域に近かった。
だから恋次は、全てを拒絶した。
それが確実に恋次自身の破滅を導くものだとしても、恋次には関係なかった。


だが結局、そうやって避け続けたことが仇となった。
狂気に浸って戻る気配さえない恋次の、 せめて魂を救おうとした一護は、
自ら恋次を狩る討伐隊を率いて、恋次を追ったのだ。
そして最後の最後、止めを差そうという瞬間、久々に覗き込んだ嘗ての友の紅い眼。
狂気の向こうに垣間見えた正気に戸惑い、返り討ちにあって命を落とした。


恋次は、そのときの感触をよく覚えている。
手にした刀が、ずぶりと一護の身体を貫く瞬間を。
突き刺さったままの刀を伝って零れ落ちてくる一護の血の鮮やかさも、
柄をきつく握り締めた手に伝ったその生温さも。
恋次の脇を掠って外れた一護の刀がもたらした僅かな痛みさえ、鮮やかに甦る。

混濁した意識の中で、死ぬな、と恋次は叫んだつもりだった。
だが恋次の腕は勝手に、一護の身体に突き刺さった刀を返し、傷を深く抉った。
一護の口から血が吹き零れた。
やめろ、と恋次は声にならぬ声で叫び、必死で自分の身体を止めようとした。
だが恋次の足は、刀に突き刺さったままの一護を蹴り飛ばした。
どうと転がって倒れた一護の身体が、噴出す血で朱に染まった。
土ぼこりが舞い上がった。
声も出なかった。
やがて落日に金の縁取りを得た一護の血の朱が、恋次を呪縛から解き放った。
よろよろと歩み寄ったが時すでに遅く、一護の眼から昔日の光は消えつつあった。
ごぼりと声にならぬ息が一護の口から零れた。
その身体を縋るように抱きしめた恋次もまた、朱に染まった。
落ちる寸前の太陽が煌めき、すべてが暗い金色に染め上げられた。
消えたかったのは、死ぬべきだったのは自分なのに、
一護が己を討ちに来たと知ったときは、
深い絶望と共に、この上ない至福さえ感じたというのに、
逆に この手で一護を殺めてしまったのだと、その皮肉さに笑った。
笑いながらも、金色の陽の光に溶け込んで、せめて共に逝きたいと恋次は願った。
声も涙も出さず、ただ願った。
そして陽が落ちた。
月明かりに照らされた二人分の血は、暗く乾いていた。
青白く照らしてくる月光はどこか金属を思わせる冷たさで、何の救いももたらしてはくれるはずもない。
虚ろに開かれたままの薄茶の一護の眼は、
流れ込んだ血ごと乾き濁って、月光を鈍く反射しているだけだった。
だから恋次は、切れかけた蜘蛛の糸を辿るようにして正気を引き戻したのだ。
こんなことはもう十分だと。
罪を負い、贖うのだと。
そして恋次は、己に死ぬことさえ禁じた。



「止めろ・・・、てめえ、こっち側に来たらどうなるのか知ってるのか?」
「今更こっちもそっちもねえだろ、恋次。今度こそきっちり殺してやるよ」

漆黒に色を変えた一護の眼に金の光が揺らめく。
圧倒的な闇に、恋次はたじろいだ。

「てめえ・・・、正気か?!」
「ああ、正気だ。ケリをつけなきゃな」
「ケリ・・・・? てめえを殺した俺に仕返しか?」
「仕返しか。そう思うならそれでもいいさ」

一護はかすかに笑んだ。
困ったようにも見えるその微笑は、
恋次、という囁きと共に、嘗ての一護が偶に見せたものだった。
閨でだけならともかく、人目があるところでも突然浮かぶその笑みは、
恋次の仏頂面を崩すこともあって、困らされた。
だが、感情も熱も隠すことができなかった一護の気性を、
揶揄しながらも愛しく想ったものだった。


去来する想いが熱く胸を駆け抜ける。
すべての咎を償うと決めたのは自分自身なのに、
何もかもを忘却の彼方に放り出し、安穏と楽なほうに流れ、
ただ怨恨だけを募らせ、我と我が身を哀れんで狂気のときを過ごしてきた。
誰が許しても、自分だけは自分を許せない。
ましてや、あの一護の魂を此処まで貶めていいはずもない。
あまりの悔いに、胸がギリギリと締め付けられる。
呼吸がつまり、 足が震え、自身を支えることもできない。
失ったものが、失わせたものが、無数の枷となって恋次の足に絡みつき、
地獄の底へと引きずりおろそうと這い上がってくる。

「う・・・・、うわぁぁぁっ!!」

恋次は湿った土に膝をついた。
叫び、両手で髪を掻き毟る恋次を、一護は静かに見下ろした。






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