鴉の理 11
「キツいか、恋次」
一護は問うたが応えは無かった。
恋次は四つ手をついたまま、暗く湿った地面に向かって、吐くように叫び続けていた。
見開かれた眼は赤く血走り、紅髪は乱れ、悪鬼さながらの咆哮が洞中に響く。
「・・・悪かったなあ、恋次」
その横に片膝をついた一護は、紅い髪のなかに片手を梳き入れる。
「俺が臆病だったばっかりによ。今度はちゃんと殺してやるよ」
そのままゆっくりと梳き下ろした髪の懐かしい感触に、一護は遠く失くした時間を想った。
どこから行き違ってしまったのか。
何が悪かったのか。
恋次の身に起きたことは不幸としかいいようがなかったが、
強い男だと、必ず乗り越えられると信じて待っていた。
だがそれは、ただの欺瞞ではなかったのか。
恋次を試していたのではないか。
もしくは嫉妬に端を発したものではなかったのか。
それを恋次は見抜いていて、だからああまで徹底して一護を拒否したのではないか。
そもそも、一生を賭して仕えていた主を亡くしたというのに、
恋次が涙の一滴さえ流さなかったのが、おかしかったのだ。
弔い時、恋次の背はいつもどおりまっすぐ伸びていた。
だが一回り小さくなったように見えた。
半眼に覗く虹彩は普段どおりに紅く光を弾いてはいた。
だが酷く乾いているように見えた。
そんな様子の恋次を目にしたのは初めてだった。
見知らぬ男に見えた。
だから恋次が嫌がると分かっていても、話しかけてみずにはいられなかったのだ。
案の定、要を得ない会話を持ちかけてきた一護をじろりと一瞥した恋次は、
公式の礼を取っただけであっさりと背を向けてその場を去った。
あまりといえばあまりのその態度に、苛立つより先に不安を覚えなかったわけではないが、
一護にも一刻も早く国許へと戻らなければならない事情があった。
それに、自分以外の誰かを想って苦しむ恋次を見ていると胸が痛む。
隙に付け入りそうな自分も嫌だった。
年が下だからこそ、譲れぬ矜持というものが一護にはあった。
だから、少しでも長く留まって恋次の傍らに居たいという衝動を抑え、
後ろ髪を引かれながらも、逃げるようにその場を去ったのだ。
後になって思えば、あの瞬間が一護との関係性を、
そして恋次の先行きそのものを決めた転機だったのだのかもしれない。
恋次は変わった。
猛々しかった振る舞いもすっかり影を潜め、
気性ごと挿げ替えたように、跡継ぎの無かった主の後釜を如才なく務めた。
嘗て無かった冷静さで指揮を取り、かといって勇猛さも薄れてはいなかった。
逝った恋次の主が憑依したのだと、
だからこそあの恋次でも責を十分以上に果たせるのだと、口さがない連中は噂した。
それほど恋次の振る舞いは、本来のものとは遠くかけ離れたものだったのだ。
戦場で抜群の働きを示した恋次とその部隊の活躍を耳にした国主は、早速恋次を呼び寄せた。
そして良い部下を持ったものだと、今は亡き恋次の主をも褒め称えた。
その降って湧いたような寵愛を楯に出世街道を驀進するかと周囲は警戒したが、
全ての褒賞を断った恋次は、何事もなかったように領地へと戻った。
欲の無いものよと恋次の評判は一気に高まった。
隣国の一護もその噂を伝え聞いた。
側仕えの者に何かうれしいことがあったのかと訊かれたぐらいだから、
よほど顔に出ていたのだろう。修行が足りぬと自嘲したのだった。
だがやがて、恋次に関する暗い噂が流布するようになった。
曰く、恋次は魂を明け渡して、人では無くなったと。
だからこそ、あのように非情になれるのだと。
その噂は隣国の一護にも届いた。
最初は、ねたみそねみの類と取り合わなかったが、噂は絶えることなく、
しかも奇妙な真実味を帯びていたので不安になってきていた。
だがあれこれ詮索しても始まるものではない。
それよりも直に会って話すことが全てだと思い、一人、馬を駆った。
恋次の仕える国と一護の仕える国は、境を接していたが、友好を比較的保っていた。
複雑に血縁が絡み合った近隣諸国の中でも、その二国は特に縁が深かったし、
同盟を結ぶことこそあまり無かったが、かといって争いが起こることもなかった。
だから遠方とはいえ、何かと理由をつけて一護と恋次は互いの領地を行き来することができていた。
訪ねてみれば、恋次は確かに以前とは雰囲気を異にしていた。
遠く道を違ってしまったとはいえ、
個人的に訪ねてきた一護に対してもいやに余所余所しい対応であったし、
顔つきもなにやら硬くなったような気もした。
だが、主を亡くした痛みを越え、齢も重ねたのだ。
人が変貌するには十分な理由だけに、さほど不自然なものとも思えなかった。
噂などやはり噂に過ぎないと思えた。
いや、そう思い込みたかったのだ。
だが一方で一護は、恋次を疑い続ける自分を知っていた。
一護の知る恋次は、周知の気さくで単純な恋次ではない。
いっそ粗暴と表現したほうがしっくりくるような独特の処世術の下、
暗く歪んだ漆黒の部分を身の内の奥深くに囲い、常に己と闘い続けている。
望み続けているものを諦めれば、
あるいは分というものを認めれば楽になるものをと思いもしたが、
元より、そのような真似ができるような恋次ではない。
だから一護は、歯噛みしながら恋次の動向を伺っていたのだ。
そして、その噂を聞いたときに何かが腑に落ちたような気もしたのだ。
終にそのときが来たのかと。
だから一護は焦っていた。
噂の真偽と恋次自身の変貌について、探りを入れるつもりでいたのだ。
だが恋次を前にして、あっさりとその案を翻した。
政や戦ならまだしも、恋次と自分の間で、そのような回りくどいやり方は性に合わない。
見えるものも見えなくなる。
だから一護は、身につけていた一介の武将としての落ち着いた振る舞いをかなぐり捨て、
大きく息をついて素に戻り、
まだ二人が肩を並べて闘っていたときのように砕けて見せた。。
結果は上々だった。
急に態度を変えた一護を、恋次は訝しげに覗きこんできた。
そこを、反応が鈍いじゃねえか、年を取ったなと揶揄すれば、じろりと一護を睨みつけて返す。
腕が落ちたんじゃねえかと吹っかければ、抜かせと柄に手を沿え応じてみせる。
壮年に近づいたとはいえ元々、年に不相応なほど子供っぽいところのある恋次だったのだ。
一護が仕掛けると、反射的ににそれに応える。
逆も然り。
それはまだ、子供と言っていいほどの時から続けてきた、言わば二人の遊びに過ぎない。
だがそうやって、苦しいときも辛いときもふざけあい、
時に突っ張りあいながら数々の苦難を乗り越えてきたのだ。
そう簡単に二人の絆も、ましてや恋次の本質も消えるわけがない。
一護は内心、ほっとした。
互いに明日のことは分からぬ身。
けれど綿々と続く時の流れの中に恋次と共に在れたことが、ただ嬉しかった。
やがて夜が来て、散り行く桜を仰ぎながら久々に酒を酌み交わした。
今更、昔のように熱く言葉を交わすことなどない。
それにこんな宵には、わざわざ声に出して語ることもない。
酒が注がれる微かな水音と、月光をさえぎりながらゆらゆらと揺れ落ちてくる薄紅の花弁で十分だった。
同じ時間を同じ場所で過ごす。
そんな些細なことが、二人の間が遠く隔たってしまった今、一護にはとても貴重に思えた。
酔いが回った恋次は、朗らかになった。
何かにつけ一護を揶揄し、一護が言葉につまると、どこか得意げになる。
それでいて、ぶっきらぼうな応答の中には思いもかけぬ繊細さと気遣いが見え隠れしている。
昔に戻ったような恋次の振る舞いに、一護は安堵し、眼を細めた。
だが夜が更けるにつけ、恋次は不安定になっていった。
機嫌よく喋っていたかと思うと不意に静けさに落ちる。
苦々しげに酒を煽る。
天上の月に意識を奪われ、一護と視線を合わせない。
何を想っているのかと問いただしたくもあったが、そんな子供染みた真似は今更できない。
まだ青年期の盛りとはいえ、一護もまた年を取ったのだ。
長いときが過ぎたのだと。
本当に二人、道を別ってしまったのだと静かに視線を落とすだけだった。
月はゆっくりと山の端に消えていった。
恋次はすっかり沈んでいた。
だから一護は酒に飲まれた振りをして、強引に枕を交わした。
肌を合わせてみれば、閉じられた瞼の下の恋次の視線の行方など気にならない。
それに、春の宵に溶けゆく睦言は甘すぎた。
若過ぎるほど若い頃に交わした情が揺り返したようで、久々に一護は我を失った。
この頃ではすっかり落ち着いていた閨事も、いつになく激しいものとなった。
飢えた獣のように、夜明け近くまで互いの身体を貪りあった。
そして気を失うように二人、眠りに落ちた。
翌朝、一護が目を覚ましたときには、もう恋次は居なかった。
世話のものに訊くと、恋次は既に屋敷を発ったと言う。
急用とはいえ、声もかけずに行くとは恋次らしくなかった。
だが、昨夜の挙句の今朝なのだから、恋次のその行動の理由も分かるような気がした。
居心地の悪さに、顔を合わせられなかったのだろう。
眼を合わせられずに困りきった顔をした恋次の姿が目に浮かぶ。
仮にもこの地の頭領を名乗っているのだ。
そんなことでは部下に示しもつくまい。
思い出し始めると、夜明け前の漆黒の闇に仄見えた恋次の切なそうな表情も、
喘ぐ声さえも鮮明に甦って身体の芯が疼きだし、表情が崩れていくのを止められない。
だから一護は、口元を手で覆いながら、
まあいい、また来た時に嫌味のひとつでも言ってやるさと使いの者へ軽口を叩き、
自分をごまかして、国許へと戻った。
それが、長年繰り返されてきた逢瀬の最後となった。
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