鴉の理 12
その夜を最後に、恋次は居らぬと邸内にさえ通してもらえぬことが多くなった。
仮に通してもらっても恋次が顔を出すことはなかった。
ならばと先触れを出すようにしたが、取り合ってももらえなかった。
最初は個人的なものかと悩みもした。
だが、問題はそんな小さなことではないとようやく一護が認識したときには、
恋次とその隊の行動は常軌を逸してしまっていた。
討伐と称した先で、壮年の男どもだけではなく、女子供もその刃にかけているというのだ。
普通なら兵どもから反感の出るようなものなのに、
恋次の元、一人として隊を離れるものも、命に背くくものもいなかった。
しかも戦闘に酔いしれることもなく、淡々と殺して淡々と戻るのだという。
何もかもが完全な統制下にあり、まるで人ではないようだと生き残ったものは語った。
だから人々は恐怖に噂したのだ。
恋次は人には非ず。
主をこっそりと殺して喰らい、その力を得て、終に人の皮を脱ぎ捨てた異形の者。
傍に長くいると、あの紅い、尋常ならざる眼に囚われて皆、鬼になる。
そう、あれはやはり鬼で全ての災厄の源だった。
今に国中を喰らい尽くすだろう、と。
その噂に一護は怒り狂った。
さまざまな異変はあれど、恋次は重責に応えるべく、勤めを果たしているだけなのだ。
厳つく乱暴で単純に見えるが、恋次にはどうしようもなく心優しく弱いところがある。
だから、命令とはいえそのような非道を働くのは苦しいに違いない。
それを外見にかこつけて、悪し様に言うとは何事だ。
一護の心の中を、先の逢瀬時に恋次が見せた姿が横切った。
恋次の刀を奉げた主が逝った今、その苦しみを分かち合えるのは自分しか居ぬと、
夜も更けたというのに一護は馬に鞭を入れた。
夜明け前、月のない夜は暗い。
先の見えぬ漆黒の闇に恋次の闇を重ねて想い、
ならば星の光さえ手繰り寄せてその闇を照らそうと、ひたすらに夜を駆け抜けたのだ。
だが夜がすっかり明けたころ、行き着いた先で目にしたのは、
累々と横たわる大小の死体に囲まれて一人佇む恋次の姿だった。
血で深紅に濡れそぼり、髪もざんばらに肩に流れ落ち、
鎧も衣服もずたずたに切り裂かれていた。
雲ひとつ無い蒼天の下、何一つ動くものはない。
燦々とさんざめく日の光を浴びて、すべてが静まり返る中、
そこだけ風景を黒く塗りつぶしたような恋次の姿は幽鬼としか言い様がなく、一護は絶句した。
だが微動だにしないその様子に、立ったまま恋次は絶命したのかもしれないと思い至った一護は、
慌てて馬を下りて、名前を叫びながら駆け寄った。
恋次はゆっくり振り向いた。
半眼に覗く紅い虹彩は、暗く翳っていた。
その焦点の合わぬ眼に凍りついた一護との邂逅は一瞬。
ゆっくりと歩き出した恋次は、
差し出されたまま宙に浮いた一護の手の横をすり抜け、歩み去っていった。
そしてその周囲を、わらわらと集まって遠巻きに取り囲んだ部下と思しき者たちの一群。
おそらく今まで薮やら森やらに隠れていたのだろう。
傷ひとつ、血糊の一滴さえついていない。
そしてそれらの
顔に浮かぶのはあからさまな恐怖。
だがその中心で、恋次は微笑んでいた。
何もいわず、何も見ず、ただ静かに微笑していた。
一護は、恋次を捕らえ損ねた自分の手を下ろし、声もなく空を見上げた。
しみひとつないまっさらの蒼天に、
血の匂いを嗅ぎつけた鴉が一羽、また一羽と集まり始めていた。
ガァァ、ガァァと空虚に響くその声に、世界が音を取り戻す。
もう取り返しのつかないところまで来たと知った一護は、唇をきつく噛締めた。
それからは坂道を転がり落ちるように、閉ざされていく恋次の心は壁を厚くしていった。
そして着実に狂っていった。
昨日より今日、今日より明日と残虐な行為を好むようになった。
人々の悲鳴も、親しき者達の讒言も、何も耳に入らなくなった。
せめて戦に狩り出してくれるなと隣国の国主へと宛てた一護の嘆願書が聞き入れられることも無かった。
国許での職務に忙殺される一護は、一刻も早く恋次を止めたくて焦れていた。
そこへ丁度、恋次の仕える国で大規模な祭典が執り行われることになった。
一護はこれ幸いと名乗り出て、勅使として恋次の仕える国を訪れた。
身動きの取れなかった祭典の最中は眼だけで恋次を探した。
だが薄暗い中でもすぐ見つかるはずの紅髪はどこにも見えなかった。
では宴でこそ席を同じくするだろうと思っていたが、居なかった。
もしや病にでもかかったかと近くにいた男に訊いてみたが、
ほろ酔いだった顔を途端にこわばらせ、何も答えない。
酒を注いで酔わせ、宥めすかし、最期は脅し半分で聞き出した事実に一護は呆然とした。
恋次の狂気は半ば公然の秘密とされ、戦に駆り出される時以外は軟禁されているのだと。
だからもちろん、このような祝い事の席には縁起が悪いと呼ばれることはないと。
すっかり酔いが回ったその男は一護に耳打ちをした。
祭殿の地下に行けと。
そこに嘗ての英雄は飼われていると。
殺されないように気をつけるんだなと下卑た笑いを浮かべながら去っていったその男を、
一護は声もなく見送った。
祭殿の地下は思ったより広かったが、見張りがいるわけでもなく、
すんなりと奥まで入れて、すこし気が抜けたのを一護は感じた。
ひんやりと冷たい土の匂いのする空気の中をどれほど歩いた後だったか。
入り組んだ回廊を抜けた先に、ぽかりと突然、灯火に照らされた居室が現れた。
鉄の格子のその奥に、結跏趺坐する恋次がいた。
水を打ったような静けさに、一護は戸惑った。
監禁されていると聞いたから、暴れ狂う恋次に会う覚悟でここまできたのだ。
その苦しみが酷いようだったら、連れて逃げるのは諦め、自分の手で止めを刺してやろうと決めて。
だが恋次は静かだった。
そっと開かれ一護を認めた紅い眼は、涙に濡れたように光っていた。
狂っているようには見えなかった。
哀しい眼だと思った。
恋次はしばらく一護を見つめた後、何も言わずにゆっくりと瞼を下ろし、再び瞑目した。
一護にできることはもう、何もなかった。
そしてその幾月後、政事が混乱を極めた。
あちこちで騒乱が勃発し、恋次は幾度となく戦に駆りだされた。
歯止めの利かなくなった恋次の手綱を取るものはなかったが、
尾鰭のついた噂の効果もあり、戦場に立つだけで抜群の功績を残した。
だが恋次自身は何も理解してはいなかった。
猟犬のように野に放たれ、
殺すだけ殺したら糸が切れた操り人形のように動かなくなる。
そこを捕獲され、また次の戦まで虜囚の身となる。
その繰り返しだった。
恋次は完全に狂気に落ちていた。
ある日、敵も味方も何もかも区別がつかなった挙句、逃走し、手当たり次第に殺戮を始めた。
時の国主は苦慮の挙句、討伐せよと命じた。
だが狂った恋次を止めようとする者はいなかった。
その実力も然ることながら、鬼と化したその異形に人々は恐怖していた。
一護は隣国よりその役を買って出た。
恋次を異形とするならば、己も同様。
一度は同じ異邦の者として道行を共にしたのだ。
だから、罪もない人々まで死に追いやるような狂人に恋次を貶めたのは己の咎。
ならばこの手で恋次の息の根ごとその狂気を止めるのは自分の役目と、
一護は昔、恋次と共に戦場を駆けていた頃の古い刀を取り出した。
決死の覚悟のつもりだった。
だが逆に一護が、恋次の刃に倒れた。
不思議と痛みや苦しみなどは覚えていない。
一人、恋次を残していくのだと、それが辛く、胸が痛んだ。
だが同時に、恋次を殺さずに済んだと、どこか安堵している自分もあった。
そして何よりも記憶に鮮明なのは、
食いつくそうと集まってくる鴉の鳴き声に侵食されて、血に赤く濁っていく嘗ての蒼天。
やがてその空に取って代わった恋次の顔が、
痛そうで苦しそうで、今にも泣き出しそうで、子供みたいにぐしゃぐしゃになっていた。
一護の名前を繰り返し呼ぶ声は、すすり泣きのようだった。
だから慰めてやろうとした。
髪をいつものように梳いてやろうとした。
だが指に数本、紅い髪を絡ませただけで、腕は力なく落ちた。
餓鬼かお前は、泣くなバカと揶揄して、昔のように拗ねさせてやろうとした。
だが声は出なかった。
世界は暗く、冷たくなっていった。
胸の奥の悔恨が、黒く硬くしこりとなって、胸の痛みは酷くなる一方だというのに、
それを癒してくれるはずの紅い眼も、腕のぬくもりも消え去っていった。
そして、一護の死体を喰らおうと集まってくる鴉の漆黒の羽が、一護の世界を黒く塗りつぶしていった。
消えていく意識の中で、己が手にかけた人々の最後の姿が浮かんだ。
結局、狂っていようが正気だろうが、行い自体に変わりはない。
同じ殺戮者たる自分が、恋次を狂人と断罪して、
ましてや殺すことで救ってやろうとするなどおこがましすぎる。
ならば鴉にだろうが獣にだろうが、喰われて世界に塵と消えてしまえと、
一護は消え去る意識の中で嗤った。
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