微睡
真冬の現世の昼下がり。
外は冷え込んで零下だと言うのに、硝子一枚隔てた部屋の中は、
二人分の体温のせいか、それとも差し込む日の光のせいか案外暖かく、
まるで春がそこにだけ訪れたような、そんな穏やかさだった。
一護はベッドの上でゴロゴロと日向ぼっこをしていた。
恋次は硬い床の上、ベッドに寄りかかって雑誌を読んでいた。
一護が転がるたびに立てる布ずれの音とベッドの揺れのせいで、
いつやら恋次は眠気に誘われていた。
「なー、オマエさ」
うとうととしだしたのを見計らったかのように、
一護がごろごろと布団の上を転がってきて恋次の髪を引っ張った。
でも何をためらっているのか、言葉がつづかない。
痺れを切らした恋次は、眠い目を擦りながら雑誌のページをめくった。
紙の立てるかすかな音が部屋中に響く。
「なー、あのさ」
更に髪を引っ張ってくる。
いつもみたいに弄るんじゃなくて、あからさまに関心を引きたがっている。
そうなると振り向きたくなくなるのがフツウってもんだ、と勝手な判断を下し、
恋次はすっかり覚めた目を雑誌に戻した。
途端、ぐぎっといやな音がした。
「いでっ・・」
関心を引けなかった高校生が、短気にまかせて髪の束を掴んで後ろに向かって引っ張ったのだ。
勢い、天井を見上げる形で恋次の頭がベッドに乗っかり、喉が宙に晒される。
反射的に元に戻ろうとする頭をしっかり両手で押さえつけた一護が、恋次の顔の真上から見下ろしてきた。
「なー、副隊長の仕事ってたのしい?」
「はあ?」
いかんせん天井見上げた姿勢なので、恋次の口は開きっぱなし。
マヌケなこと、この上ない。
しかも体勢的に不利で身動きできない。
それをいいことに、一護が恋次の顔で遊びだした。
片手で髪を押さえつけ、もう一方の手で唇を伸ばしたり、鼻をつまんだり。
一体何がしたいんだテメーは、と叫びだしたいのをぐっと恋次はガマンする。
だって今日の一護はどこかおかしい。
普段は見せない甘えた仕草が不安を呼ぶ。
「だからさー。なんで副隊長とかやってるんだ?」
じゃあその手を離せ、と恋次は言いたかったが、どうやら一護にその気はないらしい。
要するに聞けってことなんだなと恋次は理解し、顔を弄られるままにする。
「だってさー。キツイっていってただろ、中間管理職」
確かにそんなことも言ったな、と恋次は遠い記憶を手繰った。
ただそれを言うんだったら護艇十三隊の席官以上、みんな纏めて中間管理職もいいところだ。
例え隊長といっても上の指示には従うのみ。それが組織だ。
一護の指が、額の手ぬぐいを外しにかかる。
「それにさー、事務とかそういう机仕事、合わなさそーだし」
合う合わないは別にして苦手でもねーんだけどな、と恋次は11番隊時代を思い出した。
事務仕事なんて全くしない隊長・副隊長・三席だったから、弓親さんの手下として使われたもんだ。
独特の審美眼がある人だったから、筆遣いなんかもそれなりに鍛えられたし。
今思うとアレはいい訓練だった。
すっかり顕わになった墨の線を一護の爪が辿る。
己からは見えぬはずのその文様が、微かな痛みの連続となって軌跡を残す。
「上司とも大変だろ?」
それは否めない、と恋次は尸魂界にいる上司を思った。
以前より柔和になったとはいえ、生粋の貴族育ち。
どうにもこうにも頭の回路と造りが異なっているとしか思えない。
大体、上層部行きは別にして、指令その他もそのまま使用できないのだ。
何が間違っているわけではない。
紙上に認めてあるのは芸術的とさえいえる達筆と正論なんだが、一般人には通じないのだ。
そこを意訳して部下に伝えるのが恋次の主な仕事の一部にさえなっている。
ルキアが威張って見せてくれた隊長の書初めだって「天賦の才」とかだ。
その癖に滅私奉公という言葉がこれほど似合う人もいない、とも思う。
どこがどうズレているのか解らないところに、あの人のコワいところがある。
一護がカリ、と額に歯を立てる。
「恋次、卍解したんだろ? だったら別に白哉の下にいる必要ねーだろ」
そこか、と恋次は口を開けたままため息を軽くついた。
要するにこの子供は、恋次が白哉の後をくっついて回っているのが気に入らないのだ。
額を涎でどろどろにして齧りついたままの一護を両手で掴みとり、そのまま引き寄せた。
視線が合う。
「そんな簡単なもんじゃねーんだよ」
「なんでだよ」
「まだまだ学ぶことが一杯あるんだ。悔しいけど」
「何でオマエそう優等生気質なんだよ、その見かけでよ」
「見かけは関係ねーだろ。つーか隊長はやっぱスゲーんだよ」
「でも俺、勝ったぜ?」
「だから?」
だからと問われて一護は目を丸くした。
「強さだけじゃねーんだよ。勝負だけじゃ無え。勝って仕舞いじゃあねーんだ」
もっともズタボロに負けたんだけどな俺は、と言って恋次は一護を解放し、頭を起して元の姿勢に戻った。
床に広がって落ちていた雑誌を拾い上げ、読んでいたページを探す。
「・・・・・じゃーさっさと帰って白哉んとこ行ってベンキョーでもなんでもすりゃーいいだろっ」
「テメーのガッコと違うんだ。センセー教えてくださいって訳にゃあいかねーだろ」
チクショウめ。
涼しい顔して上司の肩を持つ恋人をどうしてくれよう。
至極真っ当な回答で煙に巻く恋次の後頭部を一護は睨みつけた。
でも単純な頭に何の策が立つわけもなく、感情だけが空しく暴走する。
そうこうしてる間に、恋次が背を向けたままぽつぽつと話し出した。
「確かに隊長は固いし訳わかんねーし貴族だし、まあいろいろ大変なんだけどな。
でもやっぱ器っつーの? でかいんだよ。
俺はあの人の意思の力みたいなのを見極めたいっつーか、手伝いたいっつーか」
わかるかなあそういうの、と廻してくる後ろ手に一護は噛み付いた。
いてえよ、と呟く恋次を無視して、甘噛みを続ける。
「・・・・・俺はどうなんだよ、俺は」
「あァ? だからこうやって手伝いに来てやってんじゃねーかよ」
“手伝いに来てやってる“と “手伝いたい“とじゃあ、
天と地ほども違うじゃねーかよ、と喉元まででかかった言葉を一護は飲み込んだ。
住む場所も生きる時間もましてや存在する理由さえ異なる。
死んでいるとはいえ、死神は死神としての生を生きなければいけない。
カミサマ名乗るんだったら、それなりにならなきゃ本当じゃねー。
たぶん、そういうことだ。
そういう生き方、或いは死に方を恋次は選んだってコトだ。
「・・・・・俺はさ。死神でいる理由がなかったんだよ、生き延びる以外に。
今更だけど、あの人の後について真っ当な死神でありたいと思うんだよ」
いきなり恋次の腕が伸びて、ベッドにうつ伏せに寝っ転がる一護の襟首をつかんだ。
軽々と猫の子のように引き寄せられた一護の半身がベッドから乗り出す。
頭を軽く抱き寄せられた上で口付けられた一護は、恋次の眼に捕らわれていた。
笑ってるような、哀れんでるような、そんな眼。
こんなに側にいるのに、体も触れているのに、その存在は遥か彼方。
共に在るのはこの一瞬。
いや、それさえも気の迷いか。
浅い夢に酔っている。
そんな気がする。
目を閉じて酔いに身を任せていたが、それでも空気が歪んだのを一護は感じた。
それを一瞬先に感じ取っていた恋次は一護を放し、既にその歪みに向き直っていた。
時空が歪み、虚空に扉が開く。
地獄蝶が舞い込んでくる。
「恋次さんっ」
姿を現したのは、理吉だった。
「どうした」
「すみません、現世のお仕事がお忙しい所。でも少しだけ戻ってきてもらえませんか?」
「隊長か?」
「・・・・何をおっしゃってるのかよくわからないんですよ!!
妙に不機嫌だし、鬼事だとか何とか言って逃亡するし、帰ってきてくださったのはいいんですが、
指令とか指令とか指令とか、書類全部わけわかんないんですよっ。
本気なんだか冗談だかわかんないし、もうお手上げですっ。
庶民の俺にはああいう高貴すぎる人はわかりませんっ!!」
俺なんて庶民つーより下民だぞ?と呟きながら恋次が立ち上がった。
「そっか。苦労かけたな。じゃあ俺ちょっとだけ戻るから、後はよろしく」
「って何だよそれ! オマエ現世勤務だろ?!」
「だってしょーがねーだろ。今日、隊長の誕生日なんだよ」
「・・・・!」
オマエぼーっとしてたと思ったら、ずっとソレ考えてたのかよ!
上司とか仕事とか死神とか全然関係ねーじゃねーかよっ!!
一護がギリギリと歯軋りしてももう遅い。
理吉の前で痴話げんか仕掛けたって、あっさりかわされるのが関の山。
じゃ、そういうわけでちょっとこれ預かってくれと義骸を脱ぎ捨て、
尸魂界への扉を抜け、後ろも見ずに去っていく。
「なんだよチクショー!! この二股ヤロー!」
扉が閉じる直前に聞こえたその雄叫びに、恋次は少しだけ頬を緩ませた。
別に二股じゃねーよ。
ただ、隊長の殻の中にある魂の芯みたいなのをちゃんと見てみたいんだ。
でもそれを言ったらあの子供は勘違いして怒り狂うだろうから黙っておこう。
しかもそんな風に思えるようになったのはその子供のおかげなんだけど、
それを言ったら思い上がって舞い上がるだろうからそれも黙っておこう。
全く子供ってのは単純でいい。
「恋次さん、何笑ってるんですか?」
「いや別に。ほら、着くぞ」
門を抜けると其処は尸魂界。
彼の属する世界が待ち受けている。
身を溶け込ませるべく門をくぐり、その空気を胸一杯に吸い込んだ。
ようやく足が地についた気がした。
そしてその足で、許可なく帰還した己を見て更に顔を顰めるであろう上司の下へ急いだ。
雪冤 >>
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