雪冤
久々に戻った隊舎の浮き足立った雰囲気に、恋次は眉をしかめた。
「何なんだ、一体? テメーらちゃんと仕事してるのか?」
「すみません。でも先ほども言ったとおり、隊長が・・・」
「・・・・・で、今、隊長は部屋にいるんだな?」
軽くため息をついて、恋次は理吉に確かめた。
「と、思います」
そういって理吉は執務室を指差した。
そこには部屋からあたふたと出てくる女性隊員の姿。
書類を山ほど抱えているが、どうやら追い返されたらしい。
なにやらうなだれた様子で反対方向へと歩き去って行った。
どうやら事態は思った以上に良くないらしい。
とはいえ恋次に出来ることなど限られている。
一息吸い込んで、扉の前で声をあげた。
「阿散井恋次、ただいま戻りました」
返事を待たずに部屋に入ると、案の定、顰めっ面の上司が恋次を睨みつけていた。
「こんな所で何をしている」
「虚のことで少々調べものがあって」
我ながら下手な嘘だと恋次は呆れたが、
そんな嘘など見抜いたはずの上司は黙して書類に目を戻した。
まあこれはこれで許可に当たるんだろうと解釈し、
夜には現世に戻りますと言って恋次は席についた。
物置と化した感のある副官席には山のように書類が積み重なっている。
角さえ揃ってもいないその書類を目の前にして確かに眩暈を覚えたが、
不思議とため息は出ない。
さて、と気合を軽く入れ、硯と筆を机上に並べる。
墨を擦りだすと、なにやら懐かしい香りがした。
ここまで六番隊での職務に慣れていたか、と恋次は思う。
犬吊での命を削る日々、あるいは十一番隊の荒々しくも生気に満ちた日々。
過去となってしまったあの時間よりも、
この上司の元で墨を擦ることに安堵を覚えるようになっている。
死神の長い生。
血反吐を吐く鍛錬の日々。
今となってはそれさえも惰性だったような気がする。
居場所があるというのはなんと落ち着くことであることか。
僅かな時の間に激変した我と我が身を思うと、哀れなほど愚かだ。
だかその愚かさを直視できるようになっただけ成長したのかとも思う。
最もそのきっかけをつくったあの子供が、
恋次の変化の全てを知っているかどうかは確かではないけれど。
ここの静寂と調和に比べて、あの現世の喧騒と混乱はとんでもないもんだなと
恋次は笑いを噛み殺す。それを見咎めた上司が眼を細め、
仕事をしろと言わずもがなの注意をしたのが妙におかしくて、
更に笑いを噛み殺すのにいらぬ苦労をした。
墨の匂いに満たされる余裕のある尸魂界はある意味豊かだと思う。
現世も現世なりに豊かだ。ただ、あまりにも余裕がない。
音も匂いも色も、世界の隙間という隙間を埋めつくしている。
その中でも自分の生を生きる人は多いが、
なにやら哀れに思えるのは自分が長い生、或いは死を誇るからか。
それともただ単に年寄りのせいか。
また苦笑が漏れた。
死神ではまだまだ若造の癖に、人間と比べて年寄りだなどと。
ましてや同線上において比較するなどと。
こんな風に思うようになったのは、あの子供と近しくなったせいか。
それほどの影響をこの短期間に受けたのか。
これではルキアを捕えに行ったときの自分の言動に矛盾するではないか。
今の自分は人間の顔をしてるのか。
霊力ではなくて、魂を絡め取られたか。
情けないというべきなのか、あるいは感謝するべきなのか、
皆目見当さえつかない。
「何を先刻から笑っている」
面を上げると、上司が呆れたように恋次を見ていた。
「いえ、なんでもありません」
「よほど現世が水に合うようだな」
「そういうわけではないんですが・・・・・」
どう説明したらいいものか。
言い澱む恋次に白哉は短く、
「構わぬ」
と言った。
何がどう構わぬというのか。
笑う理由の説明か、それとも自分が現世に馴染んでも構わないということか。
相変わらずの言葉数の少なさに軽くため息がでた。
「で、隊長は今日、どちらへいらしてたんですか?」
白哉はちらりと視線を恋次に寄越して、雪が降らぬ、と言った。
それが自身の誕生日であることや職務放棄と何の関係があるかわからぬが、
本人にとっては大事なことなのであろう。
理由を語らぬのは、その必要がないと上司が感じているからに過ぎない。
所詮、言葉では伝え得ない。
刃を交えてさえ解り合えるのは一瞬。
更に言えばその一瞬さえも幻影かもしれないというのに、
何を望み得ると言うのか。
四角い窓の外、重苦しく広がっている灰色の雲は陰鬱さを増している。
ここで雪でも降れば、少しは明るくなるのであろう。
祝福に似た雪の反射光が射し込めば、
何かを渇望する上司の心さえ潤すことが出来るかも知れぬというのに。
雪を待つ上司の心持が流行り病のように恋次をも侵していた。
いつしか執務室の外の雑音もまばらになり、勤務の刻限を当に過ぎたと知れた。
しかし興の乗ってきた今となっては筆を止めるのも儘ならぬ。
静けさの広がる部屋で二人、ただ筆を滑らし紙を重ねる。
どのぐらいの時を刻んだ後であろうか。
外界からの音も消え去ったのに気付き、恋次は外を見遣った。
「あ、雪です」
無機質な窓枠に仕切られたほの暗い空には、確かに白いものが舞っていた。
千本桜に似ていますね、と恋次は言った。
雪と比べるなど愚かな、と静かな、しかし厳しい声が部屋に響いた。
このように美しいものではない、と白哉は吐き捨てた。
僅かに歪んだその秀麗な横顔が、何か奥底にある感情を垣間見せた。
確かにこの上司は変わってきている。
強靭な意志の力が、以前とは何か違うものを目指し、
その形さえ変容し始めているような気がする。
副官として、いや男として、憧れと畏怖に似た感情が心中で僅かに震える。
それを掻き消すためか、いや確かに似ていますよ、と恋次は言い募った。
怪訝そうに振り向いた白哉を前に、
あの厳しいところがよく似ています、と恋次は言を重ねた。
そんな自分を聞き分けのない子供のように感じながらも。
改めて雪を見遣った二人の前を、白く雪片が舞い落ちる。
上司はそれを無心に見る。
その無表情の向こうに、どれほどの想いがあるものだろうか。
確固たる意思を持つ上司を前に改めて己を振り返るとずいぶん未熟に思う。
少しでも近づけたのだろうか、せめて手足として助けになることが出来るであろうか。
真の意味で超えることができるのであろうか。
そう迷う時点で未熟だと、あのように強靭になりたいとは思うのだけれども。
降りしきる雪に向けられた視線の先を探ると、音の無い音に飲まれそうになる。
確かにあの現世の子供は愛しいけれども、
それでも己の時は此処にあるのだと再認識する。
幾つもに裂かれた時の流れに乗り、
次元を超えることが出来る死神の在り方は融通がつき過ぎる。
もしどちらかに完全に捕らわれていたのならば諦めもつくものを、と恋次は歯軋りする。
背後には夜闇と共に有限の時が迫っていた。
君と繋ぐ手 >>
<<back