Snow Red 12 / 一護


湯飲みのカケラで傷がついた俺の掌を、恋次の赤い舌が舐めあげた。
くすぐったくて手を引こうとしたけど、俺の手首をがっしりと掴む恋次の手は強くて逃げ出せない。
恋次は、ちゅうと音をたてて傷から零れる血を吸い上げた後、今度は指を一本、口に含んだ。
見上げてくる視線にはいつもと違った艶。
さっきまでの怯えてた様子は跡形もなく消え去ってる。
一体なんなんだよ?!
あまりの変化についていけないというか、煽られてまた自分を抑えられなくなったら困る。
だから慌てて視線を逸らしたら、激痛が指を走った。

「イテッ! オイ恋次っ! 何しやがるっ!!」
思いっきり指に噛み付かれた痛みに、反射で恋次を突き飛ばしてしまった。
けど、後ろ手をついて体を支えた恋次は、いやに愉しげにくつくつと笑いだした。
なんなんだよ、コイツ!
子供の頃の恋次って、こんなに妙なやつだったのか?!

俺を見返してくる恋次の視線が不安定に揺れていた。
くるくると表情を変えて、哀しみと諦めと怒り、そして狂気染みた光が交互に姿を現しては消える。

これは、一体、なんだ?

指の傷は深いみたいで、血が後から後から流れ出て痺れが走るけど構やしない。
子供時代ってのを差し引いても、これじゃ様子がおかしすぎる。なんとか落ち着けようと肩を掴んで引き寄せるけど、視線が合わない。

「おい、恋次っ! テメー一体、どうしたんだよ?!」

肩をぐらぐらと揺すったら、恋次の口元がにやりと歪んだ。
目玉がぐるりと裏返り、馴染んだ紅い虹彩が消えた。
代わりに漆黒の闇が、ぽっかりと空いた眼孔を満たす。
掴んでいた肩から遡ってくる黒い冷たい気配に怯んだ俺は、慌てて手を放した。

「・・・テメー、恋次じゃねえな。何モンだ? もしかして虚か!?」

ふふふとどこからか女の笑い声がする。
どこだ、どこにいる?
まさか恋次の中か?!

「お兄ちゃんもきれいな色ね。でもちょっと強すぎるかな・・・」

恋次の口から響くのは、たどたどしい女の声。
子供?
きれいな色? 

すると、同じ口から今度は苦しげな低い声が漏れ出た。

「・・・切れ」
これは恋次の声だ、間違いない。
黒く闇色をしていた眼孔にも、紅い光が幽かに揺れている。

「恋次っ・・・!」
「は・・・やく俺を、切・・れ。テメーも、食われ・・・て・・えのか」
「テメーもって・・・・、オマエ、まさか虚に・・・・!!」
「・・・はや・・くっ」

恋次の首ががくっと後ろに落ちた。
「恋次っ!!」
慌てて抱き寄せた恋次の頭は、強い急激な動きでまた正面を向いた。
まるで人形のような不自然な動き。

・・・本当に操られているのか? 虚に食われちまったっていうのか?!

俺に向かう眼孔には光も反射しないほどの暗闇。
そしてまた、女の子の声が恋次の口から響きだした。
この声が虚だっていうのか。

「・・・・そうね。全部はいらない。あとちょっとで十分だわ」

恋次の気配が感じられない。本当に消えてしまったっていうのか。
俺に、切れと言っていたけど、俺にオマエが切れるわけがない。

抱きかかえたままの恋次の体の、伸ばされた手が大げさな動作で俺に巻きつく。
ゆっくりと唇が近づいてくる。
俺は、凍りついたように、それを受けてしまった。

唇を当てるだけの、冷たい口付け。
俺の霊力を吸い取っていってるんだろう。どんどん力が抜けていく。
ちくしょう。
助けるどころか、自分までやられるって一体どういうことだよ。
情けなさ過ぎるだろ、チクショウッ。

どさっと音を立てて自分の体が床に倒れたのが聞こえた。
指一本動かせやしねえ。大きな音だった割には痛みもねえ。
そして床上からかろうじて見えるのは、ベッドの向こう、窓枠に手をかけた恋次。

いや、アレは恋次じゃねえ。
虚、なんだ。恋次を食って、恋次の義骸を乗っ取ってしまった。

恋次のツラした虚がガラリと窓を開けた。
結界が張ってあるのにどうやって?
俺しか出入りできないはずなのに。
ああ、もしかして俺の霊力を吸い取っちまったから、結界も反応しないのかな。
だから「あとちょっと」って言ってたのかな。


虚が窓枠に足をかけた。
でもそれはいつもの恋次の動作。
必ず片手で窓枠を掴んでから、足場を確かめるようにつま先をぐりぐりってするんだ。
そしてほら。やっぱり顔半分だけ振り向いた。
虚に乗っ取られても残ってるんだな。
テメーは知らなかっただろ。そんな小さな癖。

街灯の光を浴びた恋次の髪がキラキラと光っている。
いつもと同じ風景だというのに。
もう恋次はいない。あれは殻だけ。
でも、俺は忘れないから。
テメーが消えても、俺は忘れないから。

・・・いや、そうじゃないだろ。
何、気弱になってんだ! 諦めるにはまだ早い、何とかなるはずだ。
捕まえて縛り上げて、あの虚だけ追い出してやる。
チクショウ、俺の体のクソッタレ! とっとと動きやがれ!!

俺は残った霊力と気力をかき集めて、なんとか体を動かそうとした。
指も動く、腕もまだ動く。
代行証はどこだ? 早く死神化しなきゃ!

そのとき、窓の向こう、虚の前に黒い影が屋根から落ちてきた。
顔が影になって見えないが、逆さづりにぶら下がっている人影は、黒い死覇装と漆黒の長い髪。
もしかして死神か?! 誰だ一体?!

「悪ィな」
と死神は一言呟いて、刀が一閃。
恋次の義骸に入った虚はあっさりと切られた。
ゆっくりと血を噴出しながら、部屋に倒れこんでくる恋次の義骸。
そしてその義骸から光の粒になって宙に溶けて消えていく虚。

「恋次ッ・・・!」

俺の目の前に仰向けに倒れた恋次の体には、今度こそ本当に何の魂魄の気配もしなかった。



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