「・・・・なあっ、恋次っ、おいってばっ! 頼むから起きてくれよっ。」
長い夢から戻ってくると、そこは騒音に満ち満ちた現世。
「・・・・うるさい。耳が痛い。」
重い瞼を開けると、ものすごく近くに一護の顔。
近づきすぎだ、鬱陶しい。
「恋次っ、気が付いたんだなっ。大丈夫なのかっ!」
近距離で怒鳴られ、耳がキーンとする。
肩を掴まれてガクガク揺さぶられ、眩暈がする。
「・・・大丈夫。大丈夫だから落ち着いてくれ、頼むから」
はぁぁと大きく息を吐き、一護が床にへたり込んだ。
「よかったぁ。俺、オマエ死ぬかと思って、もうどうしたらいいかわかんなくて。」
「そう簡単に死ぬかよバカ。」
がばっと一護が身を起してまた怒鳴りだす。
「だってオマエ、霊圧がぶれて落ちて消えかけてたんだぞ?
そんで体中が切れて、血が噴出して、でもオマエ笑ってるし。
もー何がどうなってんだか、全然わかんなくて、もう、ホントに・・・」
あー、そういや、蛇尾丸も似たようなこと言ってたな。
そんなにヤバかったのか、俺。
つーか、寝ながら血ィ出して笑うって気色悪い。我ながら。
身を起して確かめてみると確かに傷だらけで血塗れだ。
夢の中ほど傷がひどくないのは、もう塞がってきているからか。
部屋中に飛び散った血も、眼に見える速さで薄明かりの下、ぼやけてきている。
いずれにしろ、幻の域にはいることだろう。
あの
月が見せたのか。
「一体なんなんだよっ。もう大丈夫なのかよっ」
「・・・いや、だから、怒鳴るのをヤメロ。また具合悪くなりそうだ」
その一言は効果的だったらしく、一護は黙りこんだ。
月はもう先ほどまでの位置には無く、この部屋にも月光は差し込んでこない。
強い光が無ければ、漆黒の闇はやってこない。
あの影に捕らわれることも無い。
ここにあるのは濃淡だけの薄墨の世界。
その曖昧さが俺を安心させた。
ゆっくり手を開いたり伸ばしたりしてみる。
仮の肉体の中で、ちゃんと自分を感じられる。
痛みもある。
「・・・なぁ、恋次」
恐る恐るといった風に一護が声をかけてきた。
ゆっくり振り向くと、相変わらずの真っ直ぐな視線。
でも不安に揺れて、眼の光が弱い。
オマエでもそんな弱ることがあるんだな。
「さっきのあれ、なんだったんだ?
なんか今はずいぶん戻ったみたいだけど、本当にやばかったんだぜ?
白哉も焦ってたみたいだし」
それを聞いてため息が出る。
そんなわけは無いだろう。あの人が俺のことで焦ることはない。
この子供にかかると、すべてが善人になる。
「・・・・もしかして、俺のせいか? オマエ、そんななったの」
先ほどの蛇尾丸の言葉が脳裏を横切る。
“あの斬月の主でも求めてきたのであろう”
・・・まさか。
弱っていたのは本当だ。
腹の中に押し込めていたドロドロが一気に噴出して、自分がわからなくなっていた。
すべてが無になってしまったような気がしていた。
嘘を嘘で塗り固めた自我が、今回のことで一気に崩れたんだ。
そこまではわかっている。
でも、その後は・・・。
「俺、こないだオマエ来た時になんか、無理やりシタっぽいし」
俯いたまま一護は続ける。
「オマエ落ち込んでるのを利用したみたいだったし、なんか俺、もう・・・」
俺は呆然とその頭を垂れた子供を見ていた。
たかが接吻ぐらいで、何を責任に感じる?
いろいろあって、ヤケになっていたのもあったけど、
駄々をこねる子供を宥めただけだ。
それ以上の意味はなかったはず。
“ソイツのいう通りじゃねーかよオイ?”
蛇の嘲笑うような声が頭で響く。
“その小僧を求めて縋ったからであろう?”
狒々の声も続く。
・・・まさか、
俺は本当に、コイツに会っちまったからおかしくなったのか?
いや、そんな筈はない。ありえない。
「聞け、一護」
はっと一護が頭を上げる。
「俺は戌吊っていう最低な場所の出身だ。
もっとひどいことが日常茶飯事なんだよ。
殺されたり犯されたり、そんなのがフツーのところで生きてきたんだ。
特に子供なんて、ただのエサだ。
一日、生き延びるためには、どんなことでもしなきゃいけなかった。
意味、わかるか?」
一護の顔が心なしか引きつる。
それがなぜか小気味良い。
「俺がこんなになるのは初めてじゃねーんだ。情けねぇことにな。
そのたびに俺は戌吊、つまり”故郷”に帰ってたんだよ。
斬魄刀も霊力も使わずにそのゴミ溜に戻ると、生きてるって感じるんだよ。
わかるか?
俺がそこで何をしていたか?」
一護は目を見開いたまま何も言わない。いやきっと、何も言えない。
「オマエもさっき見ただろう?
汚い、腐ったようなヤツに俺が身体、触らせてたの。
あんなこと、しょっちゅうなんだよ。ま、たいてい後で切って捨てるけどな?」
哂いが漏れる。
先程、夢の中で血に塗れて哂う自分の姿を思い出す。
今の俺は、あの悪鬼の顔をしているのだろうか。
この優しい、でもだからこそ残酷な子供を傷つけるのが快感だ。
「俺はなァ、ああでもしないと、生きてるってわかんなくなるんだよ。
自分ってやつが実感できなくなるんだ。
なんてったって、地獄の中で這い蹲って生きていた餓鬼だからな。
どういう生活だったか想像付くだろう?」
覗き込むと、一護の瞳が揺れている。
俺の顔には微笑みに似たものが浮かんでいるはず。
立ち直れなくなるほど傷つけるのは、慈悲を与えるのに似ている。
「だから平凡すぎる日常ってのに使ってると、輪郭がぼやけちまうんだよ。」
眼を見開いたままの一護が、聞き取れないぐらいの声で問う。
「ルキアはどうなんだよ」
「・・・・ルキアは・・・」
刺されたように胸が痛む。
「ルキアはきれいなままだ。少なくとも俺たちに会ってからは」
俺たちは皆でルキアを護ってきたんだ。
「でもオマエさっき、すげぇ所だったって・・・」
「ああ、ひどかったよ。でもルキアは汚れちゃ駄目だったんだ」
俺たちが生き延びるために。
ルキアがきれいなままだったら、俺は幾ら汚れても平気だった。
ルキアが笑っていたら、俺は痛いのも苦しいのも平気だった。
だって、ルキアは俺だから。
ルキアは、そうあるべきだった俺だ。
だから護るためには何でもした。仲間だって売った。
「・・・ルキアは俺の全てだ。
ルキアがいたから、あの地獄を生きていけたんだ」
何言ってんだ、俺。
こんなこと、一護に話してどうする?
「だから40年がんばったのか? 白哉から取り戻すために?
それってヘンだろう?
なんですぐ会いに行かないんだよ、取り戻しに行かないんだよ?
強いとか弱いとか関係ないだろう?
ルキアだってオマエのこと、大事にしてるんだろう?」
一護が俺の胸倉を掴んでゆする。
ああ、まただ。
この子供はいつも他人のために本気で怒る。
全くの正論をかざし、大人の歪みを暴く。
オマエならな、一護。
その真っ直ぐさで突き進んでいけただろう。
でも俺は。
「それに今だってそうだろう?
ルキア、ちゃんと帰って来てるじゃねーか!
オマエだって強くなったじゃねーか!
側にいようと思えば幾らでも居れるじゃねーか!」
そうじゃないんだ、一護。
俺は多分、ルキアを誰よりも憎んでいた。
なんで俺がルキアじゃなかったんだろう?
なんで俺はこっち側で、ただ汚れて堕ちていくだけだったんだろう?
ルキアはあまりにもきれいで。
俺が汚れれば汚れるほど、輝かんばかりに白く純粋になっていった。
愛しくて死ぬほどこの手に欲しくて、だから、引き裂いてしまいたかったんだ。
・・・
この手で。
血まみれで絶望に塗れて死んでいくルキアが見たかった。
俺を絶対的に信じていて、その俺に「裏切られた」と泣くルキアが見たかった。
そうしたらやっと自分に価値があったことが感じられたような気がしたんだ。
「一護。オマエにはわからない」
いや、そうじゃない。
俺はただルキアと一緒に生きていきたかったんだ。
子供の頃に戻って、戌吊にいたときのように手に手をとって生きていきたかった。
寒い夜には身を寄せ合って、寂しいときには抱き合って。
そうやって何時までも一緒にいたかっただけだ。
「何がだよ?!」
違う。
俺は、またルキアと二人で一人に戻りたかったんだ。
全て無かったことにして、
戌吊であったことさえ全部無かったことにして、
ルキアと二人で消えたかったんだ。
裏と表、光と影。なんとでも解釈すればいい。
でも全部巻き戻してゼロに戻したかったんだ。
汚い俺もきれいなルキアも、全部消し去ってリセットしたかったんだ。
「それにオマエ、命懸けてルキア、助けに行ったじゃねぇか!
藍染に斬られても斬られてもルキア、離さなかっただろう?」
そうかもしれない。
俺は本当はただ、ルキアを助けたかったのかもしれない。
それで幸せになりたかったのかもしれない。
強くなって、ルキアを迎えにいって、平凡な幸せってヤツをやってみたかっただけかもしれない。
幼い頃、唯一、希うことができた幸せな夢。
「・・・違う、一護。違うんだ」
全部嘘だ。きれいごとだ。
本当はただ、消えてなくなりたかった。
消えたら何も考えなくてすむ。
この悲しみも怒りも全部消える。
アイツは幸せになる。
朽木白哉の手で。
俺じゃない。
俺はいらないんだ。
でもそんなのはイヤだ。
求められていたい、大事にされたい、守られたい。
でもそうじゃなかった。
それは俺じゃなかったんだ。
俺はいらないんだ。
留まるところを知らない自己否定。
もう何も見たくない、聞きたくない。
また意識がブレだす。
「・・・駄目だ」
一護から離れたい。
蛇尾丸の言ったとおりだ。
一護は危ない。
その残酷な率直さで、見たくも無い闇の深遠を見せる。
オレンジ色の光に包まれてても、やっぱり鬼は鬼だったんだ。
俺を闇に蹴落とそうとしている。
天国は天国で、地獄は地獄。
いや、ちがう。これは被害妄想。
一護が悪いんじゃない。
キレイで優しい、強い子供。
己の足で大地を踏み締め、あきらめることを知らない。
「一護。オレは駄目なんだ。」
月の光ももう助けてはくれない。
あるのは薄闇だけ。
境界を曖昧にし、全てを溶かし込んでしまう。
闇がほら、そこまで迎えに来ている。
「俺は本当に汚いんだ。もう無理なんだ。
だから俺に触るな! 一護、もう俺を見るんじゃねえ!!」
胸倉を掴んだ一護の手を振り払う。
触れた場所が火傷しそうに熱い。
「・・・恋次?」
一護の眼が俺をのぞきこんでくる。
その純粋さに耐えられない。
吐きそうだ。
「頼むからっ!!
もう、見るなっ」
これは叫び声か?
やけに甲高い自分の声が遠くに聞こえる。
視界に黒い斑点が混じりだす。
掌で顔を覆う。
浮遊感に襲われる。
耳鳴りがひどい。
手足が冷たい。
寒い。
自分で自分を抱きしめる。
それでも震えが止まらない。
駄目だ。
崩壊する。
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