心が胸にあるってこと、実感した。
だって物理的に胸が痛い。
刀傷の痛みに似てる。

紅い死神は狂って自分の肌を掻き毟り、髪を引き千切った。
血が滴り落ち、紅い髪は飛び散った。
眼は何も映さず、声は声にならずただ唸るだけ。
歯軋りの音が鼓膜に響く。
涙さえ出ない見開かれた眼はただ乾いていくだけ。
痙攣する手足、反り返る背、血管が青く首筋に浮き上がる。

恋次。
崩れ落ちていくオマエをどう引き止めたらいい?
そのまま狂ったほうが楽なのか?

でも恋次。
俺はオマエに此処にいて欲しい。
ただの我が侭だけど、まだ俺は何も伝えてない。
自分勝手だけど、でも俺はまだオマエに何もしてやれていない。
頼むから。

自分を傷つけ続ける恋次の手足を必死で押さえつける。
俺のことは見えてない。
負の力が増幅する。止めきれない。

恋次。

突如、力を失った手足はまるで糸の切れた凧。
意思もなく、感情もなく、ただ横たわる義骸。

恋次。

オマエはまだそこにいるのか。
俺にはその気配が感じられない。

恋次。

頼むから。応えてくれ。
戻ってきてくれ。

ただ抱きしめる。
強く、強く。
俺は無力だ。何も出来ない。ただ側で泣くだけ。
力が欲しい。
オマエを引き止められるだけの力が。







遠ざかっていく一護の声を後にして、俺は 凍って丸まった身体のまま、闇を漂っていた。
求めていた安寧の地ではない。
漆黒の闇。静謐。不変。
苦しみは苦しみのまま、愛惜は愛惜のまま。
ただ胸の中を映す。

楽になりたかっただけなのに。
毎夜訪れるあの痛みから逃れたかっただけなのに。

俺は本当に馬鹿だ。
逃げても何もならないというのに。

ここで闇に溶けるのが運命だというなら、従容と受け入れよう。
胸の痛みはそのまま、ルキアの幸せを願おう。
一時でも彼女の不幸を願った俺に出来るただひとつのこと。
どうか幸せでありますように。
願わくば、俺のために一滴でも涙を流してくれますように。




ぽつ。

闇を縫って雨が降る。

ぽつ、ぽつ。

絶対零度のはずなのにやけに暖かい。
小さな雫が、凍ってしまった俺の瞼に頬に落ちて溶かしていく。
笑ってしまう。
これじゃまるで、俺が泣いてるみたいだ。


声が聞こえる。

「レンジ・・・」

哀しい響きの音。

「恋次」

ああ、それは昔、俺の名だった。

「恋次」

そんな哀しい声で呼ぶな。
その声を聞くと胸が痛くなる。

「頼むから、恋次・・・」

ポツポツと雨が降り注ぐ。
凍っていたはずの身体が柔らかく包まれ、芯から溶けていく。
暖かく、気持ちいい。
彼岸の向こうから記憶が甦ってくる。
俺は守られていた。慈しまれていた。
抱きしめてくれたその暖かい手。覚えている。

闇の中、降り注ぐ雨に向かって手を伸ばした。









焦点があうと、視界一杯に一護の泣きっ面。
なんか眼が覚めるたびにこの顔を見てるような気がする。
刷り込まれてしまいそうだ。
いつも力強く輝くその眼は、涙に覆われて揺れている。
瞬くと溢れた涙が水滴となり、俺の頬に落ちてくる。

「恋次」
俺の指に絡まった何十本もの紅い髪がそっと取り除かれる。

「もうこんな風に自分を傷つけんの、止めろよ。」
そうっと頬に落ちた涙を拭い取られる。ヒリヒリと痛む。
傷だらけなんだだろう。
そして強く強く、抱きしめられた。

「もうわかったから」
震える頬が押し付けられる。

「泣けよ、恋次」
何故? オマエこそ何で泣いている?
宥めるように頭を撫でられる。
それが気持ちよくて、何もかも委ねたくなる。

「恋次」
ああ、コイツは本当に子供なんだ。
名前を呼ぶことしか出来ない。まるで母親を呼ぶ赤ん坊のように。

「恋次」
でもなんて心地良いんだろう。
コイツの声は何か心の奥深くにあるものを揺さぶる。
今まで誰も触れなかったそれ。
そんなものを持っていたことさえ知らなかった俺は驚く。
馬鹿だな、俺って。何やってたんだ、今まで。

「・・・一護」

やっと出た声は情けないぐらいかすれていて。
でも一護の耳にはしっかり届いて。

身体が壊れるかってぐらい、強く抱きしめられた。
そんなに求められたのはたぶん初めてで、 どう反応していいかわからなくて。
人間の子供に翻弄されるイイ大人で死神の自分が情けなくて。

だから 何も言えない。


のしかかってくる 一護の身体の重みが気持ちいい。
ふわふわと浮き上がりそうな俺の意識をしっかりつなぎとめてくれているような気がする。
まだ骨の細い、それでもゴツゴツとした指が俺の頬を包む。
寄せられた額がコツンとぶつかり、涙で濡れた鼻の頭が擦りつけられる。
柔らかい髪が額をくすぐる。

バスから降りた帰り道、月の光を浴びた一護の髪の色を思い出す。
あの時、無性に触れてみたかった。
本物だと確かめて見たかった。
それでその後、俺はどうしたかったんだろう。

そっと指を這わせてみるとその髪は柔らかく乾いていて、
やっぱり月の雫では濡れないものなんだと少し寂しく感じる。
ただその色と年齢にふさわしく太陽の匂いがして、それはそれでイイもんだと勝手なことを思った。



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