「動き続ける100の御題」より (配布元 / せっと)
引き摺る
ふわり、と空気が動いた。
「おにいちゃん…?」
と、夕食の準備で忙しくしていた遊子は周囲を見回した。
けれど誰も、何も見当たらない。
「あれ? おかしいなあ…」
ひょいと廊下のほうに頭を突き出してみたが、やはりそこにも誰も居ない。
何の音もしない。
「確かにお兄ちゃんだと思ったんだけど・・・」
廊下の先に続く階段を見上げても、何も見えない。
振り向いても何も居ない。
けれどやっぱり何かが居る気がする。
だってほら。
兄の愛用するシャンプーの匂いが漂ってる。
…お兄ちゃん、絶対、どこかに隠れてる。
こんな時間にシャワー浴びるなんて、絶対、変だ!
兄そっくりに眉間に皺を寄せた遊子は、いつものように腰に両手を当てて、
「もう、お兄ちゃんっ!!」
と怒鳴った。
すると、ドドドッ、ドスっと大きく重い音がした。
床も揺れた。
「きゃあっ…?! な、何っ?!」
けれど、思わず壁に縋りついた遊子には何も見えない。
音も振動も確かに前方の階段の方からした。
何かが落ちてきたような音だった。
「も、もしかしてオバケ…?」
目を凝らしてみれば、そういえば確かに階段の所に何かがいるような気がする。
階段の下のほうの輪郭がぼんやりと霞んでる。
そしてこっちを見ている気がする。
オバケが間違って階段を落ちるとかはないよね。
だったら今は、あたしに襲い掛かってくるところなんだ。
遊子は一歩後ずさった。
するとその時、
「どうしたッ?!」
一護が部屋のドアを開けて、遊子の方を見た。
「あ、お兄ちゃんッ…!!! 助けて、お兄ちゃん、何か…」
「何やってんだテメエッ…!」
「え…?」
てっきり階段を駆け下りて助けに来てくれると思ったのに、
あろうことか兄は階上で仁王立ちになり、怒鳴りつけてきた。
遊子は驚いて目を大きく見開いた。
「んな格好でまたテメエは…、何でいつもそうなんだ!」
「お、お兄ちゃん…?」
遊子はまた一歩、後ずさった。
お兄ちゃん、何を怒っているんだろう?
あたし、変な格好、してるかな?
遊子は、半ば涙目になりながら自分の服を見た。
いつもの普段着にいつものエプロンを付けている。
もしかして振り上げてるのがオタマなのがいけないんだろうか。
包丁とか持ってなきゃいけなかったんだろうか。
遊子は、階上の兄を見上げた。
「って遊子? ゆ、遊子じゃねえか…!!」
「え…?」
「オマエ、そこで何してんだッ」
「な、何って、ごはん…、ていうかオバケが…」
「オバケ…? あ…、オ、オバケかッ!!!」
兄の表情が一変した。
視線が遊子と階段の手前、霞みがかってる所を行ったり来たりした。
…やっぱり、やっぱりオバケがいるんだ。
お兄ちゃんには見えてるんだ。
じゃあもう大丈夫。お兄ちゃんが助けてくれる。
「お兄ちゃんっ…」
遊子は一歩、前に踏み出した。
「うおぉッ、待て待て待てっ…」
「…!!」
ドドドドと音を立てて、今更ながら駆け下りてくる兄の形相の必死さに、遊子は思わず引いた。
「きゃ、きゃああああっ」
「…ッ!!!」
遊子が目にしたのは、階段の半ばからジャンプした兄の姿だった。
「お、お兄ちゃん…っ?!」
「う、うおぉぉぉッ…!!!」
「きゃああッ!!!」
ドスッ。
ゴロゴロゴロ。
「お、お兄ちゃん? 大丈夫…?」
「…お、オウ」
どうにも宙で蹴躓いたとしか思えぬ感じで体勢を崩した兄は、
そのまま遊子の足元ヘを転がり落ちてきた。
「ご…、ごめんね、お兄ちゃん。大丈夫?」
「オマエが謝ることじゃねえし」
クソ、痛てェと呟きながら、兄は額に流れる血を袖で拭った。
「きゃあ、血が出てる! お兄ちゃん、手当てしなきゃ」
「いらねえし、そんなん。つか…」
慌てる遊子を前に、兄は階段の方を振り向き、ギッと視線をきつくした。
「オバケをキッチリ退治しねえとな」
「え…?」
「もー大丈夫だ、遊子」
「で、でもおにいちゃん…!」
不安そうな遊子の頭に、兄はポンとその大きな掌を置いた。
「大丈夫だ。俺がちゃんと退治しとくから。お前は安心しろ」
「けど…」
「今日のメシは何だ?」
「あ…、えっと、おでん」
「そっか。遊子のおでんは旨いからな。後で降りてくる」
くしゃりと髪を掻き回され、遊子は思わず眼を閉じた。
そして次に視界に入ったのは、
ものすごい勢いでドカドカと階段を上がっていく兄の後姿だった。
あれ?
お兄ちゃん、オバケ、退治するって言ってたのに…。
遊子は不審げに兄を見上げた。
見えないけど、右腕にかなり重そうなものを抱え、引き摺り上げているようだった。
そういえば、階段近くの床の辺りにはもう何も見えないし感じられない。
じゃあアレがオバケなのかな。
オバケってあんなに重いものなのかな。
お兄ちゃん、自分の部屋でオバケ退治するのかな。
別にここでも良かったのに。
あたしにも少しは見えたかもしれないのに。
遊子が悔しげに見下ろした床から階段にかけて、
オバケが残したと思われる水滴が点々と続いていた。
それは兄と同じシャンプーの香りを漂わせていたが、遊子にはその理由はさっぱり分からなかった。
→「刻み込む」甘々ですが、針や血の記述があります ご注意下さい
半裸のだらしない赤いオバケは、退治ではなく、お仕置きされると思われます。
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