「動き続ける100の御題」より (配布元 / せっと)


名を呼ぶ





口付けが深まると、目先の肉欲に目が眩む。
混ざる唾液が立てる音と荒い息遣いで、周囲の雑音が消え去っていく。
そして世界が静まり返ったという幻想に身を浸したその瞬間、階下から一護を呼ぶ声が響いた。

呼ばれた本人の舌打ちを合図に、世界が雑音を取り戻す。
目が合ったのは一瞬。
一護は、ため息混じりに悪いと言い残してシャツを羽織り、
ドアを後ろ手で閉めて部屋から出て行った。

階段を駆け下りる一護の足がけたたましい音を立てる。
直に床に触れたままの俺の背中は、遠ざかる振動を一つ残さず拾い上げる。
一護のぶっきらぼうな声と、一護の父親のふざけた調子の声、
そして間隙を埋める一護の妹達の明るい声。
言い争いに似た、けれどあらかじめ取り決められた会話が、家族の日常を形作っている。
それが一護の世界。


床に寝転がったまま、音に満ちた世界の圧力に耐えかねて目を閉じると、
シャツに覆われてしまった骨ばった背中が、まぶたの裏にちらつく。
残像から逃げるように目を開けると、天井が遠い。
一人分が消えた分の空間の虚ろさも、雪のように体表に降り積もってくる。
耐えかねて半身を起こすと、
目に映るのは足首に引っかかっただけの袴と無造作に絡まった帯。
媚に満ちた裸の身体。

こんな風に一人残されてはそれさえも意味がない。
冷え切ってしまって熱も残っていない。


億劫さに身を任せてのろのろと着衣をかき寄せ、
寝転んだまま、袴に両足を通して帯を手にしたその時、
「帰んのかよ」
と荒々しい声が響いた。
その声音よりも、一護の帰還に気がつかなかった自分の無様に驚いて、
戻ってきたのかと思わず呟くと、口をむっと引き結んだまま一護はシャツを脱ぎ捨てた。
なんだまだやる気かよと揶揄すると、悪ぃかよと案外素直な言葉が返ってくる。
もう止めようぜとつい応えたけど、一護はドカリと俺の横に座る。
何だよ無視すんじゃねーよと文句をつけると、
拗ねてんじゃねーよと言い捨てるその唇の方が尖っている。
喜びでもなく悲しみでもない、訳のわからない感情の波が襲ってきたから、背を向ける。
けれど、背を向けていても一護の表情も気持ちもわかっているという思い上がりが抜けない。

こんなのは幻想。
ただの期待。
そうと知りつつそれに酔う己の甘さ。
自棄に陥るのを堪えて、ギリギリで踏みとどまるので精一杯。
息が詰まって、胸が苦しい。


「・・・恋次?」
背を向けたままの俺に一護が問いかけてくる。

「恋次」
何も返せない俺の名前を一護が呼ぶ。

「恋次」
ただただ呼ばれる名前に俯くことしかできない。

「俺はこっちだぜ?」

からかうような口調に顔を上げると、一護が少し困った顔で、
「恋次」
とまた名前を呼んだ。
口元を歪めることでしか応えられないというのに、一護はそっと俺の頬に手を寄せる。
その柔らかさに耐え切れず眼を閉じると、手は肩から背中へと滑り落ちた。

「寒かったろ?」

そう言って触れた一護の唇はとても熱くて、確かに俺は酷く冷え切っていたのだと思い知った。




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2007 受恋企画初出 2008.03 加筆修正・再録
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