「動き続ける100の御題」より (配布元 / せっと)
突き放す
指を走らせると、恋次の背にぽつぽつと浮いていた汗の粒が繋がって線になった。
けれどそれはすぐに弾きあって、また粒に戻ってしまった。
薄暗闇に溶ける墨の輪郭が滲む。
窓ガラスを斜めに走るこの雨粒たちに似ている、と一護は窓の外を見遣った。
いつもより早めに入梅してから、雨が毎日降り続いている。
それは母親を失くしたあの年の雨と似すぎていて、自然と背中が丸まる。
だから一護は無理やり顔を上げて、窓のガラスを走る雨粒たちを睨みつける。
暗い空をぐっと見上げる。
幼い頃、そうしていたように。
「やめろって」
うつ伏せに寝ていた恋次が低く呟いて上半身をよじった。
汗の粒は、背中にしがみついたまま、薄く乾いてきている。
「・・・・あ?」
「くすぐってぇだろうが」
「・・・あ、そっか。ごめん」
一護が素直に恋次の墨を辿っていた指を引くと、恋次は肘枕をついてゆっくりと身体ごと一護の方に向いた。
湿って深紅に色を変えた髪も細い束になってシーツに落ち、微かな音を立てる。
捻じられる身体を薄く覆っていた水滴の膜が煌めき、
その下で闇に溶け込んだままの恋次の肌の墨も一瞬、光に溶けて隠れた。
窓ガラスには、遠く天上から降り落ちてきた雨粒が街灯の光を弾いている。
地面に落ちるはずだったのが、いきなり透明なガラスにぶつかって、さぞびっくりしたことだろう。
まあ雨粒がびっくりするってのもヘンな話だけどな、と一護はひっそりと笑う。
雨粒たちは、ガラスの表面でぶつかって重なりあって、自らの重さに耐え切れず流れて落ちる。
途中で他の雨粒も巻き込み、歪んだ軌跡を描く。
そして新しく降りつける雨粒にかき消される。
その繰り返し。
全部同じに見えるのに、同じものなんて一粒も無い。
同じ線も同じ紋様も無い。
まるで人の命のように
繰り返される。
それを無常と呼ぶのだと知ったのはずいぶんと後だった。
黙り込んだ一護をしばらく見ていた恋次だったが、ゆっくりと口を開いた。
「・・・どうした。口答えはナシか」
「あ? ああ、うん、・・・てか口答えって何だよ、その言い草。テメー、俺をなんだと思ってやがる」
「そりゃもう・・・・」
「んだよ」
「育ちそこないのガキ」
にやりと、いかにも挑発といった感じの微笑を恋次は浮かべた。
いつもの反論を繰り返そうと一護は口を開いたが、言葉がでてこない。
梅雨時独特の降り積もる湿気の中で延々と睦んでいたというのに、
身体も口の中もからからに乾ききってひび割れてる気がする。
なのに恋次は動作のひとつひとつが湿っている。
だからただの憎まれ口も水分をたっぷりと含んで、やけに艶めいているのだ。
まったくこんな不意打ちはなしだぜ、と一護は一人ごちる。
理解はしてみてもそんな反則技に対抗する術など持ってないし、
ましてやこんな雨の日には、眼を逸らして黙り込むしかない。
「・・・んだよ、やけに静かじゃねえか。マジでどっかおかしいんじゃねえか?」
心配そうな恋次の様子に、
仕様がねえんだよ、雨だからよと心の中で呟いた一護は、
それでも恋次に悟られないようにいつもの自分を装う。
「おかしかねえよ。つかあんだけやった後で元気すぎるテメーがおかしい。
まだヤリたりねえってか? あァ?」
やっといつものきかん気を見せた一護にくつりと苦笑した恋次は、
「こんな時だけ即答」
と、腕を伸ばして一護の髪に指を差し入れた。
「どうした。ん?」
くしゃっと掻き回されても為されるがままに頭がぐらりと揺れる。
額もむき出しになって、幼さが前面に出る。
そんな一護を眩しそうに眼を細めて見つめた恋次は、
そのまま地肌に指を滑らせて、
後頭部をその大きな手で包み込み、強く引き寄せた。
「シケたツラして・・・。そんなにヨくなかったか?」
いつもより静かな声音に誘われて一護が眼を上げると、
揶揄交じりの言葉に反して、仄暗い紅色の虹彩に煌めくのはやけに真面目な光。
何と応えていいか分からない一護は、そのままぼふっと恋次の胸に頭突きをする。
虚をつかれた恋次は、うおっと呻き、やられたとそのままベッド一杯に手足を広げて仰向けになる。
下敷きになった一護は、落ちてなるものかと足を使って恋次を押し返す。
「重いっ!! テメー、でかすぎんだよ。ちょっとは場所、譲りやがれ」
「うっせー。テメーは床で寝ろ。客に布団を譲るのが筋ってもんだろ」
「つかテメーは客かよ?! そんな図々しいツラの客がいるかよ」
「客じゃなかったら何だ? 大体、ツラが関係あんのか、あ?」
「あるだろ、ツラ! 客なら客らしく少しは遠慮してみろってんだ!」
「何の遠慮だよ。テメーががっついてきたから泊まるハメになったんだろうが」
「お、俺のせいかよ! テメーだって・・・!」
「ああもう煩えな。ここで寝ろ、オラ」
恋次が折れたフリをして一護を抱き込むと、
一護は大人しく恋次の肩口に顔を埋めて覆いかぶさった。
本当は一護だって別々に寝るつもりも、ましてやベッドから追い出すつもりもなかった。
ただタイミングがつかめなかった。
ああちくしょう、折れるってのは結構なテクだよなあと一護は小さくため息をつく。
そのため息を拾い取った恋次は、そっと一護の背中を撫でる。
子ども扱いのその仕草は一護の最も嫌うところだったが、何故か雨の日には一護はそれを好む。
最も本人にその自覚はないだろう。
喧嘩交じりに
ぶつかり合う中で、少しづつ拾い上げてきた、おそらく恋次だけが知る真実のひとつ。
同じ色のため息をついて、一護の視線の先、窓を一緒に見遣ると、
激しくなってきた雨が、ガラス窓に叩きつけては流れ落ちていた。
「雨、なかなか止まねえなあ」
「・・・そだな」
「水害とかでなきゃいいけどなあ」
何気なくこぼされた恋次の言葉に、一護は恋次の胸に片耳をつけたまま、窓を再び見遣った。
雨粒が流れ続ける様子に胸がキリリと今でも痛む。
子供の頃、見ているのがとても好きだった。
でもあの夏を境に、とても苦痛になった。
お母さんはあなたの中に生きてるのよと誰かがかけてくれた慰めが、鋭い刃となり幼い一護の胸を抉った。
死んだものは帰ってこない。
俺の中になんか生きてない。
俺が殺したから。
涙が溢れそうだった。
耐え切れず窓を開けたら、暴風と雨粒が容赦なく叩きつけてきた。
止める人ももう居なかったから、雨が降りこむ部屋の中に立ち続けた。
その冷たさにほっとしたのは何故だったんだろう。
水浸しになった部屋を見つけた親父が怒らなかったのは何故だったんだろう。
何もいわずに片付ける親父の背中は、とても大きく見えた。
そして俺は何故か、さらに惨めになった。
「しかしよく降るよなあ。空に穴が開いたみてえだ」
「・・・・ああ」
絶え間なく振り続ける雨粒のように、命は絶えず消えては生まれる。
そうやって世界は続いていくのかもしれない。
流れて地面に吸い込まれ、やがて空へと戻っていき雲となり、また雨と降り注ぐ。
けれどそれは別の命。
一護の大事な一粒はもう無い。
そして一護の中の在るべきだった何かは失われてしまっている。
それはたぶん、犯した罪に見合っただけの罰だと思う。
誰も一護に罰を与えようとなどとしたことは無かったのに、
そんなものを未だに希う自分はやはりどこかが壊れているのだろう。
一護が恋次にしがみつくと、同じ温かさの身体。
汗の滑りを借りて、皮膚が一気に溶け合った。
背中をゆっくりと撫で下ろす恋次の大きい手と深い心音が雨音を消す。
いっそ突き放してくれればいいのになあと思いつつ、一護は温い眠りについた。
→ 妄想する
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