三千世界の花を散らし 主と添寝がしてみたい




 恋 唄 




それは、尸魂界でも桜の季節が終わりを告げた頃のこと。
花見に行くことにしたから、と突然、伝令神機越しに告げられた。
その言葉の意味を捉えきれず、執務室の窓越しに揺れる緑と伝令神機を見比べているうちに、朝までには絶対来い、分かったな、と、一方的な言葉で一護からの通話は切れた。

俺は途方に暮れた。
仕事も予定も山積みだった。
そもそも空座町に桜花が残っているとも思えない。

─── 一体、アイツは何考えてんだ?!

けれどそれは、霊力が回復した一護が初めて見せた我儘だった。
腹を決めるしかなかった。



そして蓋を開けてみれば、何のことはない、指定されたその時間よりも更に早く、俺は一護の部屋の床に降り立っていた。
まるで子供のようだ。それとも飼い犬か。
失笑を押さえきれない。

だが足元には、カーテンが半開きになっているせいで、四角く窓の形に切り取られた月の光。
その光の中で、普段着のままの一護が布団も被らずに眠り込んでいる。

─── もしかして、待ってたのか…?

一瞬の逡巡の後、まさか、と俺は大きく頭を振った。
昔の一護とは違う。昔の自分とも違う。
以前の関係ではないのだ。
呆れ半分に大きく吐いた息は、すぐに現世の空気に溶けて消えた。



久しぶりに寝顔を目にするせいだろうか。
夜明け前の月明かりに照らされた横顔は存外あどけなく、あの頃の少年が戻ってきたような錯覚を覚えた。

─── ったく、あっさり変わっちまいやがって…。

一護は既に、青年と呼んだほうが相応しい年頃を迎えている。
あの闘いに加え、霊力を失くすという経験を積んだせいもあってか、ずいぶんと大人びた表情と落ち着きを見せるようにもなってきていた。

寝台の端にそっと腰掛けると、ちょうど眠りが浅いときだったのだろう、ううんと小さく唸って一護が眼を開け、ぼんやりと俺に焦点を合わせた。

─── この瞬間を、どれだけ待ち望んでいただろう。

その眼を見つめていると、既に記憶となってしまった空白の時間が重く圧し掛かってきた。



霊力を失くした一護は唯人となり、その類稀なる霊力が見せていた世界をも失ってしまった。
どのような事情によるものか、尸魂界においては一護への干渉を硬く禁じ、否応無く、俺も一護との繋がりを失った。
だが依然として空座町は重霊地。
しかも一護の周囲で不穏な動きが度々、観測された。
なのに当の本人はその事実を知らされることなく、たとえ知ったところで自身を護る術はない。
尸魂界が動く気配も皆無。

なりふり構ってはいられなかった。
たかが副隊長では、穿界門さえ開けないが、現世組に近い立場を利用し、あちこちを説き伏せて回り、何があっても干渉しないという条件で、黒崎一護の観察という役割をもぎ取ることができた。
結果、霊力のある奴らに気付かれるのを避けるため霊圧を消し、日中は遠くからという条件で一護の張り番を務めることになった。

俺の懸念とは裏腹に、一護の周囲は静かだった。
一護自身も、淡々と日常生活をこなしているようだった。
その眼が少し荒んでいるように見えたが、年齢や置かれた環境を鑑みると当然のことではあった。
もちろん一護の眼が霊的なものを捉えることはなかった。

─── ま、分かっちゃいたことだったがな…。

その眼には映らず、声を掛けても届かず、かといって触れることなど許されなかった。
自分はもう、その一護にとって存在しない者だと、それが全てなのだと、自分に言い聞かすしかできなかった。




「れん…じ?」

音にならないほどの掠れた声で名を呼ばれ、俺は我に返った。
まだ眠りの中にいるのか、一護はぼんやりと俺の方を見ている。

─── 一護…。

そっと指先だけで触れた髪は昔と全く変わりない感触で、ここにいる一護は夢でも願望でもないのだと実感できた。

「ん…」

一護が小さく眉根を寄せ、髪に触れている俺の手に、自分の手を伸ばしてきた。

─── ヤベェッ…!!

慌てて手を引くと、一護はそのまま眼を閉じた。
そして俺が触れていた辺りの髪をぐしゃぐしゃと掻き、寝返りを打って背を向けた。

─── 寝惚けてただけか。助かったぜ…。

こんな風に触れるべきではなかった。
今は唯の朋友。あの頃とは違うのだ。

寝台の端に座りなおし、一護に背を向ける。
月の光を受けた俺の影が、床に長く伸びていた。




酷く静かだった。
それは、すっかり馴染んでしまった種類の沈黙だった。

昔は、顔を合わせれば大騒ぎになっていた。
無用に口や手を出しては腹を立て、大声を上げて言い争い、本気で殴りあっていた。
その後は決まって一護の性急な唇に、声を奪われた。
けれど本当に静かになったのは多分、疲れ果てて深い眠りについた時だけ。
最中に口をきくことなんてほとんどなかったけど、衣擦れやら喘ぎやら、騒がしいものだった。

─── そういや気まずすぎて、ろくに口がきけなかった頃もあったっけ。

呆れるぐらいよく覚えている。
先に起きた時はのんびりと一護の寝顔でも眺めてられたけど、後から目覚めたときは、一護のとんでもない視線に晒されて、布団の中に逃げ込みたくなるほどの思いをしたこともあった。
寝癖のついた髪や布団の皺がついた頬、腕枕のせいで痺れた腕や、凝りきってしまった首。
それでも汗で湿ってぐちゃぐちゃになった寝床は、肌に馴染んで気持ちよかった。
永遠にそこから離れたくないと思うほどには。

なのに二年近くもの空白の後、一護が霊力を取り戻し、やっと二人きりになって、久しぶりだなとあの頃の笑顔を向けられたとき、俺は混乱してしまった。

奇妙な感覚だった。
俺の記憶の中の一護はどこか寂しげでさえあったのに、力を取り戻した現実の一護の視線は、別人のように力強かった。
まるで時間を巻き戻したように。

俺は嬉しいはずだった。
笑って、拳をぶつけあって、またあの頃に戻ろうと思っていた。
だけど現実には、まるででくのぼうのように突っ立ってることしかできなかった。
明るかった一護の表情が不審げに固まり、駆け寄ろうとしていた足が止まり、そして逸らされてしまった眼を縁取る睫毛が揺れるのを眺めていることしかできなかった。

─── ったく、滑稽にも程があるぜ。

ただ、生きていてくれればいいと思った。
霊力をなくしても、笑っていてくれればいいと。
けれど一護はやっぱり一護で、何よりも力を欲していた。
痛いほど理解できた。
その望みが叶えと、血を吐くほどの思いで願った。
なのに何故、あの時、俺は、哀しかったのだろう。
何を躊躇ってしまったのだろう。

その後、俺を見上げた一護の眼は、何の表情も見せなかった。
俺は、本当に久しぶりだなと、嘘の言葉だけを告げた。
一護は、何も言わずに踵を返した。
まるで宝物のように心の奥に仕舞っていた大量の記憶は、その時、瓦礫と化した。




─── 少し、寝ておくか。

押入れ近くに移動し、壁にもたれかかって腰を下ろす。
一護の張り番をしていたときの定位置だった場所。
久しぶりだが、すんなりと背が馴染む。
片膝を立てて斬魄刀を抱え、眼を閉じると、眠る体勢が整った。

─── あの頃と、少しも変わりやしねえ。

此処でこうやって幾晩を過ごしたことか。
一護は俺に気付かない。
俺は一護を見ているだけ。

─── 本当に、何にも変わりゃしねえ…。

背を向けて眠る一護の表情を盗み見たい衝動に駆られたが、無理やり眼を瞑った。
蓄積した疲労が、泥の波ように押し寄せてきていた。



→恋唄 2


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