それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
小さな違和感に、まず意識が覚醒した。
─── 何だ…? …敵か?!
眼は閉じたまま、寝込んだフリを持続する。
耳を澄まし、霊圧を探り、全身の皮膚で周囲の状況を確認しながら、掌の中の蛇尾丸と、全身の状態を確認する。
─── どこにも異常は無え。すぐに動き出せる。
そっと薄眼を開けて視覚でも確認してみたが、何の異常もない。
一護の霊圧の変化も感じられない。
─── …?
勘違いだったんだろうか。
それとも悪い夢にでも飲まれたか。
いや、夢など欠片も見ていなかったはずだ。
今でも肌に残るのは、目覚める直前まで浸っていた心地よい泥の感覚。
─── ったく、どんだけピリピリしてんだ、俺は…。
小さくため息を吐いて、もう一眠りしようかと蛇尾丸を抱えなおしたとき、寝台に横たわったまま、ひたと俺を見つめている一護の視線に気がついた。
「……!!」
息が止まった。
声も出なかった。
一護は瞬きもせず、静かに俺を見ている。
─── 何…だ……?
まるで人形か何かのように、一護は身動きひとつしない。
硝子玉のような瞳は揺らぎもしない。
無表情に、俺をじっと見ている。
─── ……もしかしてまだ寝惚けてんのか? つか何を焦ってんだ、俺は?!
何の悪いことをしてるわけでもない。
呼ばれて、少し早めに来ただけだ。
目を覚ました一護に気付かれたからといって、責められる云われもない。
もう一護は霊力が戻ったんだ、と自分に言い聞かせる。
─── 俺が見えて当たり前。…ったく、動揺しすぎだぜ。情けねえ。
一回、大きく息を吸って、普段の呼吸を取り戻し、腹を据えた。
「よう。勝手に上がってるぜ?」
蛇尾丸を横に置きながら吐いた言葉は、存外普通だった。
内心、ほっとしたところに、一護の眼がいきなり大きく見開かれた。
「恋次…なのか?」
「ああ、そうだが…」
酷く不審げに名を呼ばれ、不快になりながらも一応、返事をした。
すると一護はがばっと勢いよく身を起こした。
「ほ、本物か?!」
俺は思いっきり眉間に皺を寄せた。
「んだそりゃ。本物もヘッタクレもねえ、呼んだのはテメエだろ」
だが一護は眼を見開いたまま、何も云わなかった。
ただ、じっと俺を見つめていた。
一瞬、昔のように派手に言い返されてると身構えてた俺は、苦笑を殺し、わざとらしく肩をすくめて手元の蛇尾丸を握りなおす。
カタカタと音を立てたのは、もしかして俺の無様を笑っているのか。
「久しぶりだな、一護」
「……」
「少し早く来過ぎたが、遅れるよりゃあマシだろ」
「……」
「コッチは桜とかまだ残ってんのか? 尸魂界じゃすっかり終わっちまってるけど」
「……」
「電車とやらに乗って、北のほうにでも行く気か?」
「……」
一護はちらりと俺を見やり、小さくため息を吐いた。
神経がチリリと逆立った。
「…んだテメエ、その態度は! つか何か言え! 俺、一人に喋らせる気か?!」
「……」
「…あのなあ……」
一護の無言の理由が分からない。
そもそも今さら何故、花見に呼び出されたのかも分からない。
「…阿呆くせえ」
俺は、蛇尾丸を杖にし、勢いをつけて立ち上がった。
すると一護も立ち上がった。
俺の方に歩いてきたので、さてはやる気かと構えたが、一護はそのまま横を通り過ぎて、俺の背後の壁へと近づいた。
そしてしゃがみ込み、壁に掌を当て、
「んだよ、そういうことかよ」
と振り向いた。
その顔には、今まで目にしたことの無い種類の柔らかい笑みが浮かんでいた。
不意打ちに、どくりと心臓が高鳴った。
「…んだよ?!」
「恋次」
一護は近い位置に立ち、俺の顔を見上げてきた。
それは嘗ての一護が好んだ距離だったが、背も伸び、骨格も発達したのだろう、何か俺を圧倒するものがあった。
─── そういや、こんな近くで眺めたことなんて無かったな。
口元が歪む。
この二年の一護のことは誰よりも分かっていたかと思っていたが、こんな大きな変化にさえ気付いていなかったのだ、俺は。
すっと一護が指差してみせた方向に目をやると、そこは俺の座ってた床の隅。
さっき、一護が掌を当てていた壁。
「俺さ。霊圧を取り戻した頃、オマエの夢を見たんだ」
「……」
「何回も、何回も見たんだ。…あそこにオマエが座ってる夢」
「……!!」
「最初はホンモノかって思うぐらい、リアルだった。けどどんどん薄くなって、夢自体も見なくなって…」
一護は、床の隅を見つめながら大きく息を吐いた。
「だからさっき、オマエがそこに座ってるのを見たときも、夢だと思ってた。
これで見納めかってさ。けどオマエ、夢ん中にしちゃ機嫌悪すぎってか」
何がおかしいのか、くつりと小さく一護は笑った。
「夢の中のオマエってさ。なんか違うから、今日の夢はすげえリアルだなって思って眺めてた」
「…違うって、何が?」
「そしたらホンモノだった」
俺の問いには答えず、一護は少し視線を逸らした。
「……けどさ。やっと分かった。アレは、オマエが見せてた夢なんだ」
「は……?」
一護は、話の筋がつかめずに目を白黒させている俺の手を取り、さっきまで俺が座っていた床の隅へしゃがみこんだ。
「オイ、一護。俺にはテメーが何を話してるのかさっぱり…」
「いいから、ホラ」
「…?」
「な?」
「だから、何が!!!」
いい加減、イライラが募って声を荒げた俺に向かって、一護が「しっ」と唇に人差し指を当ててみせた。
そして、「みんな、寝てるから」と苦笑した。
─── いつの間に…。
いつの間に一護は、こんなに周囲に気が回るようになってしまったのだろう。
一つのことしか見えず、真っ直ぐに暴走していたあの少年は、一体どこに行ってしまったんだろう。
「一護。俺は…」
「いいから手ェ貸せ」
掴まれた掌が、もたれかかっていた壁に当てられた。
だが自分が残した微かな残存霊圧以外、何も感じられない。
首を振る俺を見て落胆したのか、一護は壁に向かってブツブツと呟きだした。
「もしかして自分の霊圧だから分かんねーのか? それともコレって完現術とかと関係あんのか?」
「…オイ、一護」
「つか恋次だからか? だからダメなのか?」
「んだそりゃ!」
「しょーがねえ。説明してやるよ」
「一護、テメーは俺の話を…!!!」
一護は有無を言わぬ調子で俺の手首を再び掴み、壁に押し当てた。
「此処だ」
「…?」
「此処に、テメーの霊圧が残ってる」
「ったりめーだろ。さっきまでそこに居たんだから」
「そうじゃねえよ。もっと古いのも残ってんだよ」
「へ…?」
「それも今日昨日のもんじゃねえ。ずっと前から、何回も何回も、絵の具を塗り重ねたみたいにテメーの霊圧が残ってる」
「まさか…」
一護は、肯定とも否定ともつかぬ表情を浮かべ、そういうこともあるんだぜ、とだけ呟き、壁に再び掌を戻して視線を落とし、黙ってしまった。
「…一護…?」
一護は何をしているんだろう。
何を見ているんだろう。
仮に霊圧が残っていたとして、陽炎のように正体さえないそれを探って、どうなるというんだろう。
─── まさか…。まさか一護には何か見えているのか?!
慌てて横に回ってみると、壁を見つめる一護の眼は真剣そのものだった。
一護の部屋のこの片隅に、汚濁のようにこびりついてるものがあるとすれば、それはおそらく─── 。
血の気が引いた。
→恋唄 3
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