Phantom Pain
「あれ…」
自室に一歩、踏み入れるなり、一護は小さく呟いた。
朝、部屋を出たときと何かが少し、違っている気がしたのだ。
「…?」
ざっと見渡したが、何も変わりは無い。
いつもの自分の部屋。
なのに皮膚の下にもぐりこんでしまった小さな棘を探り当てたときのような、微かな違和感が残る。
正体のわからない不安に、一護は眉をしかめたが、
─── 遊子か夏梨が何か取りに入ったんだろ。
と無理やり自分を納得させて
小さくため息をつき、
カバンを机に放り投げて、ベッドにごろんと転がった。
何の音も、気配もしない。
一人だけの部屋。
窓ガラスを擦り抜けた通りの喧騒だけが、かすかに響いている。
そしてその四角に区切られた空間で、一護の世界は終わる。
─── ほんと、キレイに消えるもんだぜ。
昔と同じように意識を澄ましても、何も感じるものはない。
近くにある硬いものだけが残っている。
広く意識を埋め尽くしていたあの密な気配はもう無い。
常に心をざわつかせていたあの喧騒も消えた。
そういうものが在ったと知ったのは、もちろん失ってしまった後だったけれども。
─── もう、一年経つんだな。
大きな闘いだった。
霊力をすべて失くした。
初めて、”普通”の人間として過ごした冬はあっという間に過ぎ去った。
それと知らぬまま春と梅雨を遣り過ごし、夏を通り抜けて今は秋のど真ん中。
こんなに季節の移り変わりをもどかしく感じたのは初めてだったと、
一護は窓の外に広がる空を眺め、寝転んだまま、手を宙に伸ばしてみた。
ほんの僅かな時間だったが、刃そのものと化したその腕の感覚は、脳髄の芯に刻み込まれたまま消えてはいない。
もう一年も経つというのに、例えば、人ごみに混じる黒い色に、夜闇に走る銀の光に、身構えるクセも残っている。
そんな時は決まって無意識のうちに手が代行証を探している。
もう、そこには闘う敵など居ないと言うのに。
課せられた重責も無いというのに。
霊圧を完全に失くしたとき、世界は似て非なるものに思えた。
とてつもなく穏やかで、隙間だらけで、そして騒がしい。
空回りしている感覚にはすぐに慣れたが、
霊力を残す友人たちと、少し距離ができた気がする。
霊圧が感じられないせいで、感覚が狂ってしまっただけのことかもしれないけど。
けれど友人たちは、何も言わない。
ただじっと側にいて、いつも通りに言葉を交わすだけ。
一護の小さな痛みを感じ、それが癒えるのを待っていてくれるのだろう。
その優しさをありがたいと思う。
けれど何も返せない。
一護は拳を強く握りしめた。
─── もう誰のことも、あの剣で護ることはできない。
それが現実だった。
眼を閉じると、 瞼の裏を過ぎるたくさんの影が見えた気がした。
「…うう、クソ、眠みィ…」
いつの間にか寝入っていたらしい。
照らしこんでくる夕陽の中で半身を起こして、うんと伸びをすると、ぐうと盛大に腹が鳴った。
─── 最近、すげえ腹減るなあ。
腹をさすりながらちらりと時計を見ると、夕食の時間にはまだ時間があった。
机の引き出しの奥に、買い置きしてた菓子がある。
食事前に間食をしてるところを見つかると、遊子は酷く怒るが、いくら食べても足りないのだから仕方が無いと思う。
よし、と勢いをつけて起き上がった一護は、
思いっきり伸ばした腕が手首の随分上まで見えているのに気付いた。
いつの間にか袖が短くなっていたらしい。
─── あ、もしかして背が伸びてるから腹が減ってるのかな。
ベッドから降ろした足も、制服のズボンの裾からくるぶしが大きく覗いている。
─── いつの間に…。
気がつかなかったなあと一護は肩をすくめ、立ち上がった。
あんなに背に拘ってたこともあったのに、今ではあまり気にならない。
伸びるだけ伸びればそれでいいのだろうと思っている。
けれどそれは多分、
─── 比べるべき相手が居ないから。
一護は、眼を閉じた。
あの気が遠くなるような闘いの後、尸魂界で言葉を交わして以来、恋次の姿は一度たりとも目にしていない。
伝令神機も見えなくなったのだから仕方ないとはいえ、何の連絡もない。
死神の力を失った後、目を覚ましたときに居なかったのは、別にどうでもいい。
一ヶ月近くもの間、側で待ってるなんてことをする男じゃないことも熟知してるし、
付き添わせるぐらいに心配させたとあっては、一護自身のプライドも廃る。
それに何より恋次には恋次の生き方がある。
高すぎる理想とプライドのせいで自分を過小評価する男のことだ。
十刃たちに苦戦したとあっては、また寝る間も惜しんで鍛錬してるんじゃないかと見当はつく。
けど、と一護は眉をしかめた。
あれからずいぶんと時間が経った。
義骸に入って会いに来るって手もあるじゃないか、
いくら死神の力を失くし、もう背中合わせで闘えないといっても、それだけじゃなかったじゃないか、
それが尸魂界の掟に反してるとしても、
そのまま消えるのが一番だと思い込みそうな格好つけだとしても、
せめて一回ぐらい、ケジメをつけるためにだけででも顔を出していい頃じゃないか。
無性に腹を立てた時もあったが、今はもう何も考えないようにしている。
そんな甘えが顔をだす自分のガキ臭さに反吐が出たから。
「クソッ」
一護は思いっきり頭を振り、机を拳で叩いた。
そして乱暴に引き出しを開けた。
「…あ」
なぜ今の今まで自覚がなかったのか。
引き出しの中に詰まっている菓子は、一年前と変わり映えのしないものばかり。
つまり、
恋次と一護と、こと味覚については共通点の少ない二人がなんとか妥協できた品々ばかりだった。
一護はギリリと歯を食いしばった。
やってらんねえ、と思った。
─── あんなにキレイに忘れてられるようになったのに、なんで今日に限って、こんなに思い出す?!
一護はぐっと顎を引いて、引き出しを閉めた。
同じ間食するなら、台所に降りて何か冷蔵庫の中を遊子に叱られながら漁った方が、マシな気がしたのだ。
だがそのとき、部屋のドアがノックされて、
「お兄ちゃん?」
と無邪気な笑顔がのぞいた。
「…遊子! どうした?」
「あのね。今日、ちょっとご飯、遅くなっちゃうけど、大丈夫?」
「あァ? そりゃもちろん構やしねーけど。どうした、何かあったか?」
「ううん。帰って来るのが遅くなっちゃったの。すぐ支度するから、呼ぶまで部屋で待ってて!」
「部屋で?」
「うん。その方がお料理に集中できるから」
遊子は申し訳無さそうに一護を見た。
何だ、邪魔者扱いかよとは思ったが、
慌てて夕飯の準備をする遊子に無理させて、ケガでもされたら大事だ。
「ああ、分かった。じゃあ後で呼んでくれ」
と手を振ると、遊子は安心した笑みを見せて階下へと去った。
だから
一護はまたベッドに横になった。
部屋にはまた、やたら密度の濃い沈黙が残されていた。
あまりに圧倒的な静かさに耳も頭も痛くなるようだった。
けれど妹と話したことで、少しだけ胸の痛みが取れている気がする。
だからこれでよかったのだと思える。
あの頃、ある程度の事情を察し、自身もかなりの霊力を持つ夏梨に比べて、
遊子はいつも蚊帳の外だと感じていたようだった。
それなのに
一護は、藍染が引き起こしたあの大過のせいで、日常のことなど気にする余裕も無かった。
様子が変わっていく兄を見ていて、不安だったに違いないと思う。
寂しかったのだと思う。
だが今はこうやって、”普通”に兄をやっていられる。
死神の力を得る前と同じように、遊子や夏梨と過ごす時間を取れる。
その余裕がある。
─── だから、これでいい。
一護は閉じた瞼の上を、両腕で覆った。
「…さて、と」
一護は気を取り直して、引き出しをまた開けた。
現実問題として、このままだと夕食までに飢え死にしそうだった。
だが引き出しに詰めこめられた袋のひとつ手を伸ばそうとしたとき、何かまたあの違和感を感じた。
何かが間違っているような、棘の刺さったような感覚が、さっきよりうんと強く感じられた。
「…あ!」
まるで敵でも睨みつけるようにじっくりと見て発見した事実は、菓子が昨日より減っているという些細なことだった。
夏梨か遊子、もしくは父親の一心に見つかって盗み食いされたかと一瞬、疑ったが、
そうだとしたらきっと、袋ごと無くなっているか、大声で糾弾されるかのどちらか。
少なくとも、黒崎家の誰もこういう食べ方はしない。
「一体、誰が…」
猜疑心に苛まれた一護は、
確かこれはもう少し残ってたはず、確かこれは開けてなかったと、一つ一つ確認してみた。
そして分かったのは、減っている菓子はどれもこれも恋次の好きなものばかりという事実。
慣習でつい
買って来てはみたものの、一護には甘すぎて中々口をつけずにいたものばかり。
「…まさか、な…」
だが、ふと見た床には菓子の屑が落ちていた。
何度注意しても治らなかったあのだらしなさ。
現世の菓子は一味違うよなあと一心不乱に食べ漁る様子。
そういえば最後の一枚を誰が取るかで本気で殴りあったこともあった。
ずっと心の奥底に押し込んで思い出さないようにしていた恋次との時間の記憶が、次々と心に流れ込んでくる。
だから、今さらと思いつつも確信に似た期待が鎌首を持ち上げる。
「…もしかして…」
どくんと大きく心臓が鳴った。
だけど期待してはいけない。
今までも、ふとした拍子に期待しては、空振りに終わったことが何回も、何十回もあった。
その度に心に蓋をして、前に向かって無理やり進むことを繰り返してきた。
一年もの時を過ごした今、やっとその虚しい習慣を終わりに出来そうになっているのだ。
今、ここで全てを無に帰すわけにはいかない。
そうやって気を取り直し、
「…アホくせえ…」
と慌てて眼を逸らした途端、床に付いた跡が目に入った。
光の加減で薄く見えるだけの、やたら大きなそれは、どうみても足跡だった。
しかも、普通の靴が付ける足跡とは明らかに異なっている。
─── やっぱり、これは草履…!!
一護はぐるりと部屋を見渡した後、慌てて窓に駆け寄った。
開けようとしたが、今朝、部屋を出たときのまま、鍵はしっかり閉まっていた。
だが硝子越しにも、窓の桟の端の埃が斑になっているのが見える。
ならばこれは多分、窓から入ろうとした恋次の足跡。
霊圧はもう分からないけど、こんなに大きくて乱暴で、癖のある跡をつけるのは、アイツしかいない。
鍵が閉まってるのを知って、おそらく壁を通り抜けてきたんだろうけど。
─── 来てたんだ…。
一護は呆然と窓の外を見遣り、胸を押さえた。
鼓動が酷くなりすぎて、他の何の音も聞こえない。
恋次が見えない、感じられない。
そこは延々と続く人の世界で、今の一護にとって霊なるものは何一つ、存在しないに等しい。
─── けど、恋次はここに来てたんだ!
そして見逃してしまいそうな跡だけ残して、また去っていった。
全然、姿を見せないのは本当は大怪我したり死んだりしたせいじゃないかと、心の片隅で疑っていた。
でも恋次は生きている。そして一護を訪ねてきた。
その事実を知っただけで、こんなに胸が痛い。
─── でも…、来てたんだったら、なんで…!!
一護は胸を押さえたまま、窓の外を睨み上げた。
その眼は必死に空に浮かぶ黒点を探していた。
けれど赤く染まりだした空に漂うのは、鴉が付けた染みばかり。
どこにも恋次は居ない。
やっぱり何の気配も感じられない。
一護は肩を落とし、窓硝子にこつんと額をつけた。
胸がひどく痛む。
手足が痺れる。
─── なんで今さらなんだよ…! 一体、何のために!
部屋を見渡しても、他に恋次が残したものはない。
ただ訪れ、何も伝えず、また消えた。
それは二度目の決定的な消失。
おそらく、最初で最期の。
一護は、強く強く眼を瞑った。
→Phantom Pain 2
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