巷に雨の降るごとく
「…また、雨かよ」
校舎から出ようとしたところで、一護は思わず天を振り仰いだ。
「もう梅雨入りしてるんだって」
「水色」
いつの間に隣に来ていたものか、すぐ近くで水色が一護に向かって笑いかけていた。
返事代わりに屋根の下から手を突き出すと、
なるほど梅雨独特の、大きくはないが密集した雨粒が降りつけてくる。
あっという間に濡れてしまった袖口がもう冷たかった。
「…結構、降ってんなあ」
またあの季節が来たと、
一護は、視線を空から校庭へと移した。
そこには既に、幾多もの小さな流れが網の目のような紋様を描いている。
足元を見遣ると、そこにも小さな流れが出来ている。
土に滲み込むことができなかった雨粒たち。
いずれは奔流となってあの河へと飲み込まれてしまうのだろう。
無力だったあの頃はこれに自分を重ねていた。
けれど今は違う。
違うはずだ。
だけど、と一護は空を見上げた。
どんよりと灰色に曇った空はとても重い色をしている。
一護の眉間の皺は、一層深くなった。
「どうせ傘とか持ってきてないんでしょ。使ってよ」
「…え?」
すっかり物思いに沈んでいた一護が、
水色の明るい声に驚いて振り向いた時には、ビニール傘が尖った先端を先にして飛んでくるところだった。
「あ…っ」
水色は思わず叫んだが、
一護は難なく、なぎ払うようにしてその勢いを殺し、柄を握り込んだ。
「サンキュ。でもいいのか? オマエや啓吾はどうすんだ?」
その危なげなさに
水色は一瞬、驚きに目を見張ったが、
何も言わずに、すぐにいつもの笑みを浮かべなおした。
「…うん、ボクは迎えが来てるもの。
それと啓吾なら、お姉さんに傘、取られちゃって泣きながら走って帰ったから大丈夫だよ」
じゃあまた明日ねと水色は雨の校庭に駆け出した。
その背中の向こうに啓吾の悲惨な姿が見えた気がして軽くこめかみを押さえると、
雨霞の向こうに、水色を待つ車の鮮やかな色が揺れているのが目に入った。
その様子は、梅雨を彩る紫陽花に似すぎている。
一護は眉間の皺を一層深くした。
パシャッ。
雨そのものを否定するように、勢いよく校庭に一歩踏み出すと、思ったより派手な水音がした。
足を進めるたびに泥水がバシャバシャと跳ねる。
降り注ぐ雨の立てるザァザァという音に混じり、傘に降り注ぐ雨がパタパタと軽快な音を立てる。
見上げると透明な傘の上に広がる曇天、
ビニールの上を絶え間なく滑り落ちていく幾筋もの流れ。
ぐるりと傘を回すと、雫が弾け飛んでいった。
───
きれいだな。
雨の中、くるくると傘を回しながら一護は歩きだした。
足元の水を蹴り上げて、派手な水しぶきを上げてみる。
靴はずぶ濡れだったけど、訳もなく高揚するのを感じる。
───
そういえば小さい頃は、雨の日も晴れの日と同じぐらい好きだったっけ。
長靴の中の足がふやけて、全身が泥だらけになるまで水溜りで遊んだりしてた。
おふくろは、傘持って雨合羽着て長靴履いてる方が何でびしょぬれになるんだろって笑ってた。
俺も本気で分からなかったから、正直に分からないって言ったら、おふくろはただ笑ってた。
そういえば寝る前に読んでもらった本で、
遠い国では雨じゃなくて魚やカエルが降ってくることがあるって知って、すごくびっくりして、
じゃあチョコレートが降ってくればいいのにと言ったことがあったっけ。
そしたら次の朝、窓が開いてて枕元にはチョコレートが散らばってた。
そういういたずらが好きな人だった。だからいつも皆で笑ってた。
一護は傘を退けて、空を見上げた。
───
小さいときは雨が好きだった。そう、好きだったんだ。
顔に冷たい雨粒が降り注ぐ。
ふるりと一護の身体に寒気が走った。
─── でももう、いない。
気がついた時には、少し遠回りの、けれど雨の日には特に緑がきれいな道を選んで歩いていた。
もう止めてしまったけど、あの空手道場へも通じる道。
当時の面影を残すその道を、いつの間にか水溜りを選んで足を運んでいた。
パシャパシャと水しぶきが跳ねる。
その度に、水の薫りが強くなる。
にしても甘ったれだったよなあと、
やはり水溜りの中を歩いていた子供の頃を思い、一護はくすりと笑いを漏らした。
今でも、小学校の玄関のところで傘を手に、一護を待つ母親の姿が瞼の裏に焼きついてる。
それを見るのがすごく嬉しくって、一緒に帰るのが楽しくって、確かわざと傘を忘れたこともあったはず。
罪悪感と一対になったあの幸福感。
慣れることの無い強い痛みを伴うにしても、何度も何度も思い返さずにはいられない。
だが、その度にどうしようもない怒りにも苛まれ苦しくなる。
自分が殺したのだと。
その自分が、こんなふうに思い出して、幸せな気持ちになっちゃいけないと。
それは分かりきっていること。
何度も繰り返した過ち。
なのに堂々巡りを止められない。
思い出を捨てきれない。
─── つまるところ、甘ったれの本質は変わっていない。成長しきれていないんだ。
水溜りの中に突っ込んだ足を思いっきり蹴り上げると、大きな水しぶきで視界が曇った。
「あ、そういや…」
妹たちは今日、傘を持っていったのだろうか。
─── 早く迎えに行ってやんねーと。
あんな小さい体でこんな雨に濡れたら風邪を引いてしまう。
一護は慌てて駆け出した。
傘を持って迎えにくる母親がいない妹たち。
その原因は自分なのだから、ちゃんと責任を取らないといけない。
自分勝手な思い出なんかに浸ってる場合じゃない。
足元で泥水が盛大に跳ねる。
既に湿りきっていた制服がずぶ濡れになっていく。
傘を差してるのに、顔にまで雨粒が当たる。
それでも中々進まない。
───
なんて遅くしか走れないんだ、この体は。
いっそ死神化して空から傘を届けてやろうか。
けど抜けた後の体はどうする?
その辺に転がすわけにもいかねえし、所詮、後の祭りってやつか?
一護は歯軋りをした。
─── もっと早く気がつけばよかった、チクショウ。
鞄が邪魔だ。傘も邪魔だ。
一護は傘を閉じざま、ブンと大きく振り下ろした。
その瞬間、目の前に何かが降ってきた。
振り下ろした傘から、重い手ごたえを感じた。
「おっぎゃああッ」
「うおッ?」
奇妙な雄叫びを上げて突然現れた黒いものは、
振り下ろされた一護の傘に弾かれて、地面に転がり落ち、派手な水しぶきを上げた。
さては敵かと、一護は傘と鞄を背後に放り投げて構えを取り、代行証へと手を伸ばした。
だがこの霊圧と色合には嫌というほど覚えがある。
「…って、恋次? オマエ、恋次かッ?」
「イッテェ…」
「やっぱり…」
雨の中、びしょぬれになって頭を抱え、うずくまってるのは紛れもなく恋次の姿だった。
「…オマエ、こんなとこで何やってんだ」
思いっきり呆れた声を出してしまってから、一護は我に返った。
─── ヤバイ、こんな言い方。恋次、絶対キレる。
久々の再会だと言うのに。なんかフォローしねえと。
だが、時、既に遅し。
「そりゃあこっちの台詞だ、ボケッ」
案の定、ブッチリ切れた恋次は、立ち上がり様、一護の腹に拳を叩きこんできた。
「痛ッてェッ! 何しやがる!」
「そりゃあ俺のセリフだこのボケがッ! いきなり斬りかかってきやがって!」
「っせえ! テメエがいきなり飛び出してきたせいだろうがッ! つか斬ってねえよ! 傘だ、傘、このボケ」
「言い訳してんじゃねえよ! あー、クソ、泥だらけになっちまったじゃねえか」
理不尽すぎる恋次の言い草に、一気に一護の頭に血が上る。
「んで俺のせいなんだよ! 大体、テメエが突然、勝手に落ちてきたんじゃねえか! あァ?」
「だから! だからテメエが…」
だがそこで恋次の声はいきなり途切れた。
紅い虹彩が揺れて見えるのは、決して雨で霞んでるせいじゃない。
引っ掛かりを覚えた一護は、少し眉をひそめた。
「…んだよ?」
「んでもねえよ、クソッタレ」
「はぁ? んだよソレ!」
「なんでもねえっつってんだろ!」
言い捨てて立ち上がった恋次はずいぶん長く雨に降られていたらしく、頭から爪先までずぶ濡れだった。
だが周囲を見回しても虚はいないし、霊圧も残っていないから戦闘後という訳でもない。
─── なら何でこんなところにいるんだろ? 会いに来たんなら部屋で待ってるはずだし。
一護は不思議に思ったが、肝心の恋次本人といえば、
頭から湯気が出てないのが不思議なぐらいの不機嫌さで、今は絶対、口を割りそうにない。
だから一護は、一旦引いて様子をみるのが得策だと判断した。
「…相っ変わらず訳分かんねえなあ、オマエも」
感情を抑えた自分の台詞に、うん、俺ってかなり大人と一護は内心、自画自賛した。
だが、恋次はにやりと揶揄交じりの笑みをみせた。
「っせえ、テメエにゃ言われたかねえぜ。雨ん中、水遊びってマジでガキかよ」
「…見てたのかよ。趣味悪りィ」
「俺の霊圧に気付きもしねえぐらい夢中だったみてえだな?」
「…どっから見てたんだよ、テメエ!」
「さあな」
立場の優勢を感じ取ったのか、恋次は上背を活かして一護を見下ろしてきた。
偉そうに、と反射的に一護は恋次を睨み返す。
だけど今は不思議とその目付きが気にならなかった。
→巷に雨の降るごとく 2
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