もういい、という突然の硬い声に反応する前に、
寝床に沈んでた背がふっと軽くなった。
キシっとベッドが鳴る。
慌てて眼を開けると、
ついさっきまで圧し掛かってきてた一護の身体が遠ざかっていくところだった。
視界一杯に、天井の味気ない色が広がる。
Kissy-kissy
約束してた日に来れなくなったから代わりに今日来たんだと、不機嫌な知らせを手に訪れてみれば、予想に反して、一護は「そうか」とだけ応えた。
駄々を捏ねられると構えて来ただけに、ほっと安心したのと焦りとがごちゃまぜになって、つまるところ肩透かしを食らった格好になった。
予想外の沈黙が落ちた。
ジィジィと蝉の鳴く声が耳についた。
一護が小首を傾げた。
先を促されたのかと思って、
再会時の習慣になりつつある、一護の好みそうな尸魂界の近況話を勢い込んで始めたら、
「悪りィ、夏休みの宿題しなきゃなんねえんだ」
と、気まずそうな顔に遮られた。
二度、肩透かしを食らった格好になった俺は、あ、悪りィとかなんとか口ごもり、これまた習慣になりつつある現世の雑誌を手に取って目を逸らした。
キィと響いた金属音に眼を上げれば、クルリと椅子を回した一護が、背を向けたところだった。
訪問時と同じように片肘をついて、机に向かっている後姿に、こうやって突然来るのは、やっぱり迷惑なのかもしれないと思う。
いっそ帰った方がいいのかもしれない。
けれどそれは完璧な晩夏の午後だった。
夢見たことさえもない、調和の取れた穏やかな時間。
何一つ、怯えることも無い。
自分を預けきれるこの感覚。
仮に幸福というものがあったら、きっとっこんな午後に潜んでいると思った。
もう少しだけ居てもいいだろうか。
雑誌を少しずらして一護の背を盗み見ると、普段あまり目にしない角度で目にするせいか、ずいぶんと広く感じた。
もしかしてこの夏にまた成長したんじゃないだろうか。
肩幅だけじゃなく、腕の線も太くなったように思える。
俺はまじまじと一護の身体を見た。
白い布に覆われて隠れてしまってるが、汗をかいてるんだろう。
布地が肌に張り付いて、身体の線がはっきり出ている。
筆を滑らせる腕の動きに合わせて、背を走る筋肉が動くのが見える。
けどまだ背筋が弱えェかな。
もうちょっと脇の方も鍛えると、刀を振るうときに楽になるんだけどな。
今度会えたら、手合わせしてみようか。
けど一角さんに教わった鍛錬法だとか口にしたらむかっ腹を立てるだろうな。
一護の背中を眺めながらつらつら考えてると、瞼をやけに重く感じ出した。
気が緩んだせいだろう。
ここ数日の激務がたたって、溜め込んでた眠気がまとめて襲ってきていやがる。
そもそも今日、一護を訪ねるはずじゃなかったとはいえ、ちゃんと相手をしなきゃ。
じゃなきゃ埋め合わせにならねえし。
俺は、一護に悟られないように、欠伸をかみ殺した。
数日後に来る葉月の末日が、出所さえもはっきりしないが、とりあえず俺の誕生日で、睦言にまぎれて交わされた約束は、その日に会うという他愛もないものだった。
休みを取ってはいたが、隊員の一人が代わりを探して困っていたから名乗りを上げてしまった。
ただの当直だし、副隊長命令を出せば、その辺のヒマなヤツが代わりを勤めてくれるはずではあった。
だが、わざわざ無理を押してまで、その日を一護と過ごしたくなかったのだ。
そもそも死神に誕生日など意味がある訳もない。
重要なのは死。
終焉。
更にその先にあるもの。
潜み、待ち受けるもの。
俄か死神の一護に理解は出来ないかもしれない。
この子供は、生まれたばかりの、まだ本当に子供でしかない。
春が来たといえば桜を見上げ、夏が来たといえば水に遊ぶ。
秋の訪れを落ち葉の色で知り、冬になれば雪を頬に溶かす。
そんな子供に、俺たちの都合を押し付けるわけには行かない。
だが納得はして欲しい。
だから妥協点として、ほんのちょっとだけ前倒しで、けれどかなり無理して休みを取り、こうやって現世を訪れた。
その無理を一護が悟るとは思えないし、当日じゃなきゃイヤだの、約束を守らんねえヤツは知らねえだの、いつも通りの駄々を捏ねられるだろうと思ってた。
その一方で、一騒動起こした後には結局、一護は折れると思った。
だってあれは求めることができない子供だから。
他人のためにしか動けなくなってしまった石の心を芯に抱えてるから。
だが覚悟して訪れた現世では、全く予想を外れた状況に陥ってしまった。
一護は一護なりに、うんと成長してて、約束を反故にしたことに動じさえしなかった。
駄々を捏ねられて往生するどころか、俺のほうが待ったを掛けられた形になった。
つまり俺の予想が甘かったってことだ。
期待、してたのかもしれない。
怒って拗ねて強請って欲しかったと。
そうやって、何かを確かめたかったのかもしれない。
だが
結局、甘えてんのは俺ってことだ。
みっともねえ。
ふうと大きくついた息は、窓から吹き込んだ風に溶けて消えた。
ベッドに寝転んだまま見上げた天井は、相変わらずの無愛想さだった。
ラジオはごく小さな音で、現世好みの流行の歌を聴かせてる。
一護の立てる紙をめくる音や鉛筆を走らせる音が、その喧騒に重なって緩やかな和音を奏でる。
眼を閉じると、瞼の裏が赤く染まった。
二の腕で眼の辺りを覆っても、いくらきつく閉じても、光がすり抜けてくる。
まるで一護のようだと思う。
同時に、何ボケてんだ俺、とも思う。
意識を外に移すと、蝉が夏の最後を謳歌している。
けれど、もうそろそろ秋の気配を肌で感じ出す頃。
初夏の空気など思い出せぬぐらい忙しい時間を過ごす人々にとっては、夏中喚き続けた蝉の鳴き声は既に騒音に過ぎないだろう。
耳など貸すこともなく、先を急いでいるのだろう。
彼岸と同じく、現世も夏は音に溢れている。
それはまるで、今更ながらの新発見。
彼岸と此岸を自由に行き来する俺たちの間を隔てるものなど、
結局、偏見や思い込み以外、この世に存在しないんじゃないかとさえ思えた。
ならば、先なんか知ったことか、と思った。
成長して変わっていく一護も、いつまでこんな時間を過ごせるか分からない不安も、知ったこっちゃねえ、
今が幸せってやつなんだ、それを思い知れ、俺、と思った。
だが俺自身、その認識の矛盾を知っている。
果てしない迷走の行きつく先を知っている。
もうだめだ。
これ以上、真っ当に意識を保てそうに無い。
暴走する意識に翻弄されて、悪夢よりタチの悪い白昼夢を見そうだ。
一護には悪いが、宿題とやらをやってる間ぐらい、眠らせてもらってもいいだろう。
大きく息を着いて容赦のない眠気に意識を手放すと、心地よい敗北感に満たされた気がした。
→「Kissy-kissy 2」
<<back