「…一護、止めろ」

肺の中の空気を絞る出すようにすると、ようやく声が出た。
酷いしわがれ声。だが一護は反応しない。

─── 見られてしまう、覗かれてしまう。俺の奥に巣食う、あの鬼を─── 。

「止めろって言ってんだろ…ッ!!!」

壁から無理やり引き剥がした一護は、目を丸くして俺を見つめていた。




虚圏でろくな戦果も上げられなかったあの頃の俺は、自分の無力に打ちのめされていた。
勝ちたかった。強くありたかった。
年端も行かぬ一人の少年の肩にその責を預けるのではなく、せめて共に並んで闘いたかった。

生涯の目標と定めたその人物を超えようと闘ってきた。
だがそれは自己満足に過ぎなかった。
そんな狭い視野では、戦士でありつづけることもできない。
全ての霊力と引き換えに世界を護ろうとした一護の前に、戦友として立つこともできない。
強がりとすれすれの矜持だが、譲れるわけも無かった。
ただただ、不変で絶対の強さが欲しかった。

それからというもの、死ぬ気で鍛錬を重ねた。
寝る間も惜しみ、神経を研ぎ澄まし、限界を無視して力を磨くことに専念した。
卍解に頼ることなく闘えるように、苦手だと避けていた鬼道も必死で習得した。
常軌を逸した鍛錬振りに、周囲から忠告を受けるようにもなった。
最近の阿散井は鬼が乗移ったようだという風の噂も耳にした。
だが止まらなかった。
ひたすら、ただひたすら己を鍛え上げることしか頭になかった。

その甲斐あってか、手ごたえを感じられるようになった。
もちろん、まだまだ足りない。一護の覚悟にも遠く及ばない。
それは分かっている。
けれど、俺はまだ先に進むことができる。
そう信じることができるようになった。
だから一護の張り番として名乗りを上げることもできた。

だが現世を訪れた時、その思い込みは粉々に砕かれた。
力を失った一護の肩は細く、必死で身につけた僅かな力など、今の一護の前では何の意味がなかった。
俺は何もできなかった。
泣くことさえ忘れた子供が立ち竦んでいても、慰めることさえできない。
肩を叩いてやることさえできない。
かつて世界をその両肩に負った少年の背中を痛々しいと思う自分の思い上がりを醜く感じた。
何かが俺の中で崩れた。

─── 何で俺は此処にいるんだ…?

一護の霊力喪失を理由に傍らに居続けることに何の意味があるんだろう。
無力と言う闇の底で安寧を貪ることに、何の意味があるのだろう。
自分が忘れられていくのを見ているだけと思うこの卑しい心に何の価値があるのだろう。

─── 何も、無い。

頭では分かっていた。
万が一に備えて傍に控え、命令に反してでも一護を護るのだと。
それが己が望んで就いた役割であり、存在価値もそこにあり、
心がもげて堕ちてしまう前に、
どこか地面の奥深く、あるいは海の底深くで朽ちてしまえたらなどと思う卑小な自分に、意味などないのだと。

だがその時、部屋の隅に蛇尾丸を抱えて座りこんだ俺の周囲で、何かがざわりと蠢いた。

─── 何だ?!

俺は辺りを見渡した。
目の前では一護が寝台に横たわり、何かを読んでいる。
他に何の気配もしない。
だが声が聴こえる。
俺を呼ぶ声が聴こえる。

「…何だ?」

─── 殺しちまえ。

その声は、不意に耳元で囁いた。

「何…だと?!」

─── 分かってんだろ? テメエのことを見ようともしない男のためにテメエが死ぬことはねえ。殺しちまえ。

見回しても誰も居ない、何も居ない。
ならばこの声はどこからしている?
俺の何を知っている?!

「誰だ…?!」

─── それができないのなら、道連れにしてやればいい。
今なら簡単だ。何も映さぬその瞳の前で刀を抜き、刃先を咽喉にそっと当ててやるだけでいい。
一護は、自らその咽喉を刃に押し付けるだろう。
価値の無くなったその命を差し出すだろう。
突然、噴出した己の血に驚きながら、もがいて真紅の海に沈んでいくだろう。
死して初めて、何が自分の身に起きたのか理解するだろう。
刀を抜いたテメエの、死を与える神の姿を目の当たりにしながら。

「何を…、何を言ってる?!」

─── ハハッ! その時、一護は泣いて許しを乞うと思うか? 既に死んでいるのに?

俺の動揺を察したように、声は口調をガラリと変えた。

「テメエ…ッ!」

─── 無様だな。テメエはそれを見て嗤うか? 呆れるか? こんな弱い男に惚れていた自分ごと?

明らかな嘲笑交じりのその声に俺はキレた。

「止めろっつってんだろッ!!!」

─── 何を止める? これはテメエ自身の声だ。
テメエのことを死んだことにしてしまったその男を憎むテメエのな!

「…んだと…? 俺が一護を憎む…?!」

─── テメエ自身のことだ。よく分かってんだろ?

「違う…。何で俺が一護を憎まなきゃなんねえんだ?! そんな…、そんなはずはねえッ」

─── 確かに忘れられたぐらいで、普通は憎まねえよなあ? 

声は囁く。

─── だがテメエは違う。あんだけ惚れただの腫れただの言ってきた仲だ。
それが、見えなくなったぐらいであっさりとハイ、忘れましたときた。

「煩せェッ!!」

─── テメエはまだ執着まみれなんだよ。きれいごとばっか並べやがって、傍にいたいだけじゃねえか。
傍にいて、そしてどうする? 他の男なり女なりと睦むのもそうやってじっと見てるつもりか?
それともソイツらを全部、斬って捨てるつもりか、あァ?!

「煩せェ、煩せェ、煩せェッ!!!」

─── なら何で一護に別れを告げなかった。何故、一護が霊力を失くす前に顔を合わせなかった。

「……!!」

─── 所詮、テメエはそんだけの器ってことだ。諦めな。

「お、俺は…」

─── 諦めることさえできねえんだったら、殺しちまいな。スッキリするぜ?
霊力は無くても、死んで魂魄になった一護はテメエが見えるようになる。

「……ッ!」

─── 格の違う存在となったテメエを、一護はどんな眼で見るんだろうな?
会いたかったって、そう言ってほしいか? …未練たらしいことだ。泣けるね。

「煩せぇ…」

─── ありえねえよ。一護はテメエのことなんざ、忘れちまってるよ。
だから一護がテメエを見てもきっと─── 。

「煩せェ、消えろッ!!!」

蛇尾丸を抜き、空を切り裂く。
俺の耳を、哄笑が劈く。
愚かで弱い俺をあざ笑い、無為に力を失くした一護を嗤う哄笑が。

「くそッたれが……」

冷水を掛けられたように体表が粟立っている。
頭の奥で、心臓の音がガンガンと響いている。

「チクショウ…」

だが振り向いた先では、一護は静かに読み物を続けていた。
さんざん叫び続けた俺の声も聴こえず、この鼓動も感じられず、
一護は一護の世界に生きていた。

「…一護、テメエは……!!」

その時、初めて、霊力を失くした一護に向かって、その名を吼えた。
もちろん一護には届かなかった。
此れが絶望かと、身体中の力が抜けた。
涙も出なかった。
そしてようやく悟ったのだ。
何故、人の魂魄が堕ちて虚になるのかを。




今もあの哄笑は、小さく、あるいは大きく、波のように俺の耳に打ち寄せては消えている。
あの時、風穴が開いてしまった胸の奥には、虚ろという名の鬼が棲んでいるのだ。
だからこの部屋の隅に何かが感じられるというのならば、それは堕ちてしまった俺の、鬼の心に他ならない。

─── 絶対に、知られる訳にはいかねえ…!!

「恋次…ッ?!」
「煩せェ、黙れッ!!」

一護を押し退け、掌を当てていた辺りに、自分も掌を当ててみる。
意識を集中してみる。
だが何も感じない。
何も見えない。
一護の言う、俺が残した昔の霊圧など欠片も感じ取れない。

「 …?!」
「恋次?」

振り向くと、尻餅をついたままの一護が俺をじっと見て、
「何か見えたか?」
と言った。その落ち着き払った態度に、一気に神経が逆立った。

「テメエッ!!」

胸倉を掴みあげた。一護は抵抗しない。

「テメエ、一体、何をしてやがった?!」
「…恋次」
「言え! テメエが見てるのは何だ?!」

俺の焦りとは裏腹に、一護は小首を傾げ、「何にも」と言った。

「…何にも?!」
「ああ。何にも見えやしねえ」
「嘘だ…!!!」
「嘘じゃねえ。じゃあテメエは何か見えたのか?」
「く…ッ」

信じられるわけがない。
睨み付け、襟元を締め上げる。
一護が咽喉の奥から苦しげな息を吐き出す。
腹の奥に、ちろりと火が燃え上がる。
このまま痛めつけてやろうかと思う自分が居る。

─── 胸の奥のあの鬼は、舌なめずりをしているのだろうか…?

あの哄笑が聞こえるような気がした。

─── ヤベエな…。

これ以上、一護に関わるなと本能が警告していた。
自分もあの鬼も、制御できなくなりそうだった。





→恋唄 4


Web拍手
<<back