一護を締め上げる腕から力を抜いた。
何に気がついてもいないのだろう。一護は、
「何にも見えないかったんだ。本当に。こんなにはっきり霊圧が感じ取れるんだからと思ったんだけどな」
とため息を落とした。
一護は嘘をつくのが下手だ。
なら、見えなかったというのも本当だろう。あの鬼の声も聞いていないに違いない。
─── …ったりめえか。アレは俺だ。一護に聴こえるわけもねえ。
ほっとしたのと自嘲とで、肩から力が抜けた。
鬼の哄笑がまた聴こえたような気がして頭を大きく振ると、一護が不審そうに俺を見た。
「どうした、恋次。大丈夫か?」
「…いや、何でもねえ」
近づいてきたのを、手を振って制する。
一護は少し俯く。
無意識に握り締めていた蛇尾丸がまたカタカタなった。
「ならいいけど。…つか悪りィな。せっかく来てもらったってのに、怒らせるようなことばっか言っちまって」
「…いや」
「…俺さ。やっぱ死神に戻りたかったんだ」
突然、けれど静かにきっぱりと一護は言い切った。
今まで決して口にされることはなかったであろう本音に、俺は凍りついた。
「死神に戻って、力を取り戻したかった。けど、そう思っちゃいけなかった」
「……」
「だからなんだろうな」
一護が肩越しに見遣る。
少し揶揄の混じった、諦めの混じった視線。
「テメーのことも忘れたかったよ。考えないようにしてた」
知ってはいたことなのに、はっきり言葉にされて思いがけず胸が痛んだ。
「…けど、オマエは此処に居たんだな…」
「……」
「気付こうともしねえで、悪かったな」
ポケットに両手を突っ込んだまま、背を見せる一護の肩の線は確かに昔よりもしっかりしていた。
だけど、なんでこんなに頼りなげに見えるんだろう。
なんでこんなに小さく見えるんだろう。
「…一護、俺は─── 」
「あのさ。恋次。オマエ、あの桜、覚えてるか?」
一護は背を向けたまま、天井を見上げた。
「…んだよ、突然?!」
それは余りにも唐突で、しかも場に不似合いな明るい声だったので、俺は戸惑い、声が上擦ってしまったが、
一護は俺に構わず、話し続けた。
「随分前、花見に行った桜があったじゃねえか。すんげー古い、遅咲きの樹」
「……」
「覚えてねえかなあ。花見シーズンとか終わった後に咲いてた、すっげーデカい木でさ」
「あ…! あったな、そういえば」
ずっとずっと昔、
まだ大きな闘いが始まる前のこと。
花見に来るという約束を守れず、
葉桜の季節に訪れた俺の手を引いて、一護が向かった先にあった桜の古木。
ひそやかで、奇麗な夜だった。
「俺、あそこに行った夢を見たんだ」
「…何だ、テメーは夢ばっか見てんな」
「っせえ! つか黙って聞け!」
思わず苦笑をもらすと、一護は拗ねたように小さく怒鳴った。
すっかり一護のペースにはまっている自分を感じて、俺は内心、苦笑を重ねた。
─── 妙なもんだな。
こんなに月が奇麗な夜に、こんなに穏やかに話せるようになるなんて思ってもいなかった。
─── 不思議なヤツだぜ。
神経を逆撫でるのが得意なくせに、こうやっていきなり穏やかな時間を作り出す。
そして嵐のように、人も死神も尸魂界さえも巻き込み、一気に世界を動かす。
たかが一死神の俺が太刀打ちできるわけも無く、
簡単に振り回されてしまうのは、以前と全く変わっていない。
最も、一護自身が自覚しているとは思えないが。
一護は窓の向こうを見つめている。
月明かりがその横顔を薄く照らす。
─── 終わったんだな、本当に。
受け入れてみれば、胸の中のしこりが溶けていくようだった。
こういう終止符も悪くない、と思った。
一護もおそらく、そう思っているのだろう。
酷く大人びた横顔だった。
「あの桜。俺、去年も一昨年も行かなかった」
「…そっか」
「もう、行くつもりはなかったんだ」
「……」
「でもさ。夢に出てきちまったんだ」
一護の視線が、どこか遠くを彷徨いだした。
「最初はあの樹だって分からなかった。だって周りが春なのに、一本だけ枯れ木みてえでさ。
けど枝にいっぱい蕾がついてきて、膨らんできて、咲きそうになってた。
だから俺は、すごく焦ってた。早く呼んでこなきゃ間に合わねえって」
たかが夢の話だ。だから、誰を、とは訊かなかった。
一護の口元が微かに歪んだ。
「…けど、桜は咲き始めちまった。あっという間に満開になって、あっという間に散り始めた。
俺はそんなこと、本当は分かってて、だから諦めたまま、遠くから花を眺めてたんだ」
一護は喋り続けた。
「そのうち葉桜になったと思ったら葉っぱも散ってしまって、冬になってまた春が来て花が咲いて。
俺はその繰り返しをずっとずっと眺めてた。そしたら、恋次」
真正面から俺を見た。
「テメエがそこに居たんだ」
「…俺が?」
半ば予想していたから動揺はなかった。
所詮、思い出話だ。
「ああ。けど桜の樹の向こう側。
すんげえ嬉しそうに桜を見上げててさ。あー、テメーもそういや桜、好きだったなあ、
ガキみてーにはしゃいでるな、懐かしいなあとか思いながら俺はコッチ側からぼんやりとテメーを見てて…。
そしたらオマエはいきなり俺の方を見たんだ。らしくねえぐらい優しいツラしてさ」
一護は軽く肩をすくめた。
「けど、オマエが見てたのは俺じゃなかった。俺とオマエの間にあった桜の樹の向こう側にいる誰か」
「誰だよ、それ」
「知らねえ。オマエ、ソイツのところに行っちまって、樹の後ろに二人で隠れてしまったし」
「……」
「俺、オマエが見てたやつの正体が知りたかった。けど声も出ない。身体も動かない」
「一護…」
「案外、イヤなもんだな、見てるだけってのは」
苦笑してみせる一護を前に、俺は声もなかった。
何を言いたいのか、何を伝えたいのか、考えたくも無かった。
だが全身が耳になったように、一護の言葉に神経を尖らせていた。
「だから昨日、行ってみたんだ。あの桜のとこまで」
「…」
「そしたら切り倒されてた」
一護は再び天井を見上げた。
その眼には何が映っているのだろう。
「すっげえ大きな樹だっただろ? いっぱいに枝を広げてさ。それがきれいさっぱり無くなってた。空がやたら広くなってたよ」
「…そうか」
「ずっと開発予定のところだったんだってさ。地元の人たちは反対してたけど、でも樹が病気になっちまったって」
「桜は案外、弱い樹だからな」
「そうみてえだな。台風かなんかで折れた枝から悪い病気が入ったって、皮を取りにきてた人が言ってた」
「皮?」
「染色に使うんだって言ってた」
「ああ、なるほど…」
「なんだ、知ってたのか?」
「ああ。戌吊に居る頃に小遣い稼ぎに山に入ったからな」
「そっか…」
花や蕾ではなく、開花直前の桜樹の皮を使うと何ともいえぬ色に染まり、
貴族からも引く手数多なのだと聞き、山奥に入っては木の皮を集め、売り払って食い物を手に入れていた。
早春のほんの僅かな間だけに可能だが、嘘みたいに割のいい商売。
だが桜は弱い。
生皮を剥ぐような真似をすると、例外なく立ち枯れるのだとルキアは悲しそうな顔をした。
俺は山に入るのを止め、遠く山肌を染める桜を幸せそうに眺めるルキアと共に居ることで飢餓を耐えた。
─── そういう頃もあった。何も知らなかった。ある意味、幸せだった。
笑いが漏れた。
ただただ命を繋ぐことだけを考えて生きていたあの頃が、
むしろ懐かしく、還りたいとさえ思えるときが来るなんて想像だにしてなかった。
「…恋次? おい、恋次!」
「あ? …ああ、すまねえ」
「ぼんやりしてんじゃねーよ」
一護が笑う。
俺も小さく笑い返した。
→恋唄 5
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