あの頃は本当に何も知らなかった。
桜樹の皮にもその色が宿るのだと聞いた時だって、花を咲かせるためなのだろうとしか考えてなかった。
何故、桜樹は全身でその色に染まってしまうのか、どうしてもう少し深く考えなかったのだろう?
花などほんのひと時の夢に過ぎない。
たとえ春を迎えることができても、花を咲かせることができるとは限らない。
それでも冬を耐え忍び、春を待ち望み、人に刈られる危険を犯してでも、
あの硬く無愛想な皮の下に想いを重ねてきているのだ。
だからこそあの色になる。
誰に見せることが無くても全身で、あの色に染まっている。
「なあ、恋次」
「…なんだ?」
「あの桜を見に行こう」
「はぁ…?!」
「もう無いけど、でもテメエには見せておきてえんだ」
「もしかしてそれがテメエの言う”花見”か?」
「ああ、そうだ」
一護は俺に向き直った。
ポケットに両手を突っ込んで、軽く背を反らし、俺をふてぶてしく見上げてくる。
「俺は、テメーと何の話もしてねえ」
「…!」
「決着がついてねえ。…そうだろ?」
その眼の光の強さに、何の話だ、と、とぼける事はできなかった。
「霊力が戻って、死神の力も戻った。けど全部が元通りになった訳じゃねえ」
「…そうだな。だが…」
「取り戻せねえものもある。そんなことぐれえ知ってる。だけど、一回きっちり話をつけねえとって思ってた」
「必要ねえだろ」
「あるだろ! テメエの方じゃ勝手に終わったつもりかもしんねえが…」
「つもり、じゃねえ。終わってんだ。2年だぞ?」
一護の眼が大きく見開かれた。
その動揺がたまらなく愛しいと思うのは何故なんだろう。
「けど、恋次…」
「何を今さら…。テメエも分かってんだろ?」
「あ…、ああ! 分かってるよ! 分かってたよ!
だからきっちりケリをつけたかったんじゃねえか! …けどッ!!」
一護は壁を指差した。
「オマエ、此処にずっと居てくれたんだよな?! だったら俺は…!!」
「ずっとじゃねえ」
「けど一回や二回の話じゃねえ! そんなの、この霊圧で分かる!」
「…勘違いすんな。尸魂界の命令で、オマエの警護をしてただけだ」
─── 違う。俺が自分で志願したんじゃねえか。
だが素直に言葉にできない。
一護は、眉をひそめて周囲を見渡し、再び俺に向き直った。
「でも他のヤツの霊圧は残ってねえ」
「…俺が一人で担当してたからな」
「理由を…、理由を訊いていいか?」
「適任だったからじゃねえか?
現世にも詳しい、ある程度の力もある、統制の取れた六番隊なら副隊長ぐらい欠けても隊務に支障は出ない」
すらすらと淀みなく出る嘘。
実のところ、俺のほかにも適任なら幾らでもいた。志願者もいた。
尸魂界からも交代時期について打診があった。離れたほうがいいとも分かっていた。
朽木隊長は何も言わなかったが、ルキアが心配していた。
だが、どうしても現世を後にできなかった。
歪んだ執着も育っていたが、何よりあの一護を、誰の目に晒したくなかった。
一護は少し目を見開いたまま俺を見つめた後、逸らした視線をあの部屋の隅に向けた。
「けどな、恋次。さっき俺、何も見えなかったって言っただろ?」
「…ああ」
「覗き込んでも真っ暗だったし、本当に何にも見えなかったんだ。…けど、聴こえたんだ」
「何が…」
「オマエの声。俺の名前を呼んでた」
「……ッ!」
一護は突然、俺の襟元を掴みあげた。
「なあ、あれは…、あれは俺の勘違いなのか?
けど確かに聴こえたんだ。テメエの声が、俺の名前を呼ぶのが!」
「一護…!」
「答えろよ! 呼んだのかよ、俺を? 待っててくれたのかよ?!」
「い…ち…」
「答えろっつってんだろ!
テメエが此処で俺を見張ってた間、俺の名を呼んでたんだろ? そうなんだろ?!」
俺は呆然と、声を荒げる一護を眺めた。
「…いや。俺は、オマエのことは呼ばなかった」
「恋次…!!」
「呼んで何になる?」
─── 呼び返されない名に何の意味がある?
何も、本当に何一つできなかった。
一護の力を取り戻せるのは、所詮、一護本人だけ。
─── いっそ、人になりたいとさえ思ったんだぜ?
俺は、嘲笑が自分の顔に浮かぶのを感じた。
そうだ。
あの鬼の声が囁いたように、殺してやりたいと思った。
その一方で、血を吐くような思いをして手に入れた力を手放し、、
血肉を持ち、限られた短い命を持つ人と言う存在に戻りたくさえなったんだ。
そんな自分が惨めだった。
悔しかった。
そんなこととも知らず、あっさりと力を取り戻し、今頃になって問い質してくる一護の傲慢。
─── 忘れたとは言わせねえ。あの頃の、無力なテメエを。
一護は知らなくても、俺は何度も会いに来ていた。
ずっと見ていた。
家族や友人の手前、明るく振舞いながらも、何かあればすぐに戦闘に備えて構えてしまうところも、
時折、零れ落ちてしまう苦しげな表情も、硬く握り締められる拳も、
空を見上げるその眼の透明さも、全部、見ていた。
そしてそれは、誰もいないと思い込んでいるからこそ見せた弱さだということも知っていた。
─── あれもテメエだろ、一護!!
なのに、死神の力を失くしていた頃の自分をまるで他人のように扱っている。
何事もなかったかのように2年の時間を飛び越えようとしている。
「名前なんか呼んでも何にもならねえだろ?!」
俺は、知らず声を荒げていた。
「─── 名前なんか呼んでも何にもなんねーんだよ! 傍にいようが、名を呼ぼうが、テメーには関係なかっただろうが!!」
「れ、恋次…?!」
「何で分かんねーんだよ。いくらテメーが夢の話をしてももう関係ねえんだよ! あの一護はもう…ッ!!」
消えてしまった。
そう、消えてしまったのだ。
二年近くもの間、傍らで見守ることしかできなかったあの少年はもう居ない。
この強い一護の奥にひっそりと身を隠してしまった。
「恋次…!?」
「っせえッ!」
─── そうか。そうだったのか。
俺は、凍り付いてしまった一護を前に、同じく呆然と突っ立っていた。
やっと気付いたのだ。
俺が何故、あんなに待ち望んだ、力を取り戻した一護を否定していたのか。
あれも一護だった。
もし力を残していたのなら、会うことさえ叶わなかった唯人としての一護。
そしてそれは、俺だけが知ってる一護だった。
俺が護ってやっていた。
あの時確かに、俺だけのものだった一護は、あっさりと消えてしまった。
─── クソ、そういうことかよ。我ながら狭量にも程があるぜ…。
けれどほら。
目の前で、力を取り戻し、さらに強くなったはずの一護の瞳が揺れている。
「けど恋次、俺は確かに聞いたんだ! 嘘じゃねえ!」
と悲鳴のような声を上げて訴えてきている。
その眼には、あの頃と同じ不安が揺れている。
だが真っ直ぐに覗き込んでくるその瞳の奥は限りなく透明で、俺を圧倒する。
ならば一護は一護のままで、俺が見ようとしなかっただけなんだろうか。
結局、俺は矮小な自分の枠に閉じこもり、
一護の弱さやその奥にある強さから目を逸らしていただけだったんだろうか。
「なあ、恋次! 俺…、俺はやっぱり…!!」
「俺は、テメエの名なんか呼ばなかった。それが現実だ」
「恋次ッ!!」
一護の顔が歪んで、泣き顔になった。
それは初めて目にする表情だった。
─── 一護…?
不思議な気分だった。
霊力を失くした一護は、それでも涙の一滴も流さなかった。
明らかに嘘だとしても、明るい表情を絶やさなかった。
その一護が泣きそうになっている。
力を取り戻し、強くなったはずの一護が─── 。
「恋次…、お、俺は…!!」
そして、あっという間にその眼に水膜が張ってしまった。
まるで水面に映った月のように、その瞳が揺れている。
─── 零れてしまう。
俺は、一体何をやっていたんだろう?
この少年が泣かずにすむように、笑顔で人としての生を全うできるように、
現世を訪れ、命を賭して護ろうとしていたんじゃないのか。
その名さえ呼ばず、ひたすら堪え、
結果としてあの鬼をこの胸の奥に生み出すことになっても、それでも護り続けてきたんじゃないのか。
「一護…」
その一護が、今、泣いている。
ぽろぽろと涙を零し、子供みたいに泣いている。
止まっていた時間が動き出して初めて知った、失ってしまった時間の重みに泣いている。
─── ずっと我慢していたんだろうな…。
張り詰めた心が切れてしまったのだろう。
おそらくこの少年は、本当は自分が何を惜しんでいるのかも分からずに泣いているのだ。
人のままでいれたらよかったのにな。
そしたら俺のことも忘れて、死神だったことも忘れて、いつかはちゃんと芯から人になれただろうに。
俺もいつかはオマエのことをきっちり忘れて前に進めただろうに。
それは憧憬。
失ってしまった日々という美化された幻想。
いいことばかりじゃなかった。一緒にいたせいで辛いこともあった。
今、繋いでしまうと、再び訪れるのだ。
あの別れが。深い孤独が。
─── 耐えられるのか?
湧きあがる疑問。こみ上げる苦笑。
─── 一護が? それとも俺が?
答など聞く必要も無い。
既に腹は決まっていた。
「一護」
「お…、オウ。悪りィ、俺、なんかスゲエ…」
はっとして、慌てて袖で涙だの鼻水だのを拭いだした姿は本当に子供そのもので、笑みが漏れた。
「いいから、一護。よく聞け」
「う…」
「俺は、オマエの名前は呼ばなかった」
「…ああ。分かってる。とんでもねー勘違いして悪かった。忘れてくれ」
「けどそれは、言葉にしたら本当になる気がしたからだ」
ガバッっと一護が顔を上げた。
顔がぐちゃぐちゃだった。
「れ、恋次…?!」
「俺は多分、認めたくなかったんだよ」
「そ、それって…!!」
ぐちゃぐちゃの一護の顔の真ん中で、その目が大きく見開かれる。
それはずっとずっと昔、一緒に居た頃に見せたあの表情。
ならばこの子供は、今も本当に俺を慕っていてくれてんだろう。
胸の奥が熱くなる。
「…けど一護。俺は変わってしまったぜ?」
「そんなの、俺だって一緒だ!」
「一緒じゃねえ」
「一緒だろ! チャドに言われるまで気付かなかったけど、力をなくしてからの俺って…」
「いや、全然、違うんだ、一護。俺は…」
頭から血の気が引いた。
そうだ。
何を俺は勘違いしている?
俺は一護を殺そうとしたじゃないか。
自分勝手な想いに身を任せ、力を取り戻せた一護のことを喜んでもやれなかったじゃないか。
一護の傍に戻る資格など、ない。
「いや…、いや、悪かった。忘れてくれ。今のは全部、忘れてくれ…」
「恋次…?!」
「すまねえ。勘違いだ。何もなかったことにしてくれ」
「な…、なんだよそれッ!! どういう意味だよッ!?」
「煩せェッ!! テメエも聞いただろうが、あの声を!」
「あの声?!」
「そうだ。テメエのことを呼んでたっていう俺の声だ」
「…さっきの?!」
一護が壁を振り返った。
「ああ、そうだ。俺は、声に出してオマエを呼んだことはなかった」
たった一回を除いては。
「なのに聴こえたってのは多分、そりゃあ俺の…」
自分の胸を指差してみせる。
風穴が開いてしまった、鬼の棲むその場所を。
「此処から漏れた声だ。所詮、魂魄だから、そういうこともあるんだろ」
「……」
「けどそりゃあオマエを呪う、恨む声だ。テメエが期待してたような恋慕の声なんかじゃねえ」
「…!!」
「覗いてみたけど見えなかった、真っ暗だったって言ったじゃねえか。
見えなかったんじゃねえ。ただの闇だ。それが俺の中身だ」
「…恋次…」
「見損なったか? だがそういうことだ」
「……」
「たった2年だ。けど人が変わるには充分な時間だ。長すぎたんだよ。
俺は、本当の意味でテメエなんか呼んじゃいねえ。当の昔に終わってた。夢だったんだよ」
一護は何も言わず、俺をじっと見ていた。
なんて寂しそうな顔をするんだろう。
けれど俺はもう返す言葉を持たない。
「…なあ、恋次」
「何だ?」
「オマエ、ちっとも変わってねえなあ…」
「…ッ!! テメエ、俺の話、何にも聞いてなかったのかよ?! 俺はッ」
何故か一護は薄く笑み、そして音も無く俺に近づいてきた。
→恋唄 6
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