爪 -前編-



外は秋雨。
音もなく霧のように降りしきる。
現世と違ってこちらの闇は深いから、音がない雨は不安を呼ぶ。
だから雨粒を見ようと思ったんだけど、なかなかうまくいかない。
目で追いきれない、小さな水滴たち。

「どうした」

ぼーっと縁側で外を見ていたせいで、恋次が部屋に戻ってきたのに気がつかなかった。

「・・・雨か。どうりで湿気ると思った」

風呂上りの頭をごしごし手ぬぐいで擦りながら縁側に出ては来たが、
寒いと言って部屋へ戻り、そのまま柱の前に腰をおろした。
恋次の定位置。
柱の頭の辺りにうっすらと跡がついてるのをコイツは気付いているのだろうか。
その跡が赤くないってのが不思議な感じがするけど。

視線を雨に戻してしばらくすると、全ての静寂をぶち壊す喧しい声。

「おい、てめーも風呂上りだろ。体冷えるぞ」

うるせーな、コイツはいつも。
無視して縁側から動かずにいたら、首根っこをつかまれた。

「おらおらおら、まったく世話の焼けることだよ」

猫みたいにずるずると引っ張られ、畳の上に放り出される。
障子をぴしゃっと閉める音がした。
なんでコイツはこう動作の一つ一つが煩いんだろう。
闇に慣れた目には灯火の光もまぶしくて、思わず寝っ転がったまま顔を腕で覆う。
途端、口に触れる何か。
それは熱くて湿ってて、容易に恋次の口唇だと知れた。
しばらくの食むような口付けのあと、俺が恋次の首に手を回すと、いて、と恋次が呻いた。

「・・・オイ、爪伸びてるぞ。ここ、ホラ」

つかまれた指の先、確かに伸びた爪が裂けて逆立っていて、コレじゃ痛い。

「ちょっと待ってろ」

恋次が押入れの中をゴソゴソと探しだす。
いいじゃねーか爪ぐらい。
でもこの後のことを思うと、確かにまだ歯止めの利く今のうちに切っておいた方がいい。
今日はなんか優しく出来そうにないし。

恋次が小さなハサミを持ってきた。

「爪切りじゃねーんだ?」
「他人のはハサミのほうが切りやすいんだよ」

そう言っておもむろに俺の手を取る。

「てめー、ほんとに体冷え切ってるぞ?」

そういう恋次の手は熱くて、湯気まで見えそうだ。
だから冷たい指先には火傷しそうなぐらいで、それが心地よくて爪を切られるに任せる。

そういえば小さい頃にも、こういうことがあったっけ。
泥だらけで冷え切って帰ってきた俺を、おふくろが風呂に入れてくれた。
爪に残ってた泥を丁寧に取って、爪をハサミで切ってくれた。
ハサミの方が爪切りより切ってあげやすいのよって同じこと言ってた。
俺もお返しって切ってあげたけど、すっげー難しくって、指を切ってしまった。
こんなの大丈夫よ、ありがとうって笑ってた。
おふくろが死んだのは、それからどれぐらい経ってからだっけ。

「・・・ほら、足も出せ」

そう言って恋次は俺の足を取る。

「あ、足はいい。巻き爪だから」

足を引こうとしたけど、恋次は離してくれない。

「だったら余計、人にしてもらったほうがいーじゃねーか」

その大きな掌で包むようにして足を支え、胡坐をかいた膝にのせる。
もう一方の手でハサミを持ち、慎重に切り進める。
それがこの大きい男には似合わないぐらい繊細な動きで。

「上手いもんだな」
「ああ。ガキん頃、やっぱりルキアの左の親指が巻き爪でな」
「そっか」

沈黙が降りた。

こういうとき、互いにかける言葉の無いことは知っている。

「いてっ」
「あ、わりぃっ」

親指の先、血が少し滲んでいた。

「ほんと、悪い。固くってうまく切れなかった」
「ったりめーだ、ガキの頃のルキアと比べんな」
「・・・すまん」

そう謝るこの男の肩が妙に小さく見えて、ルキアの名前を出した自分もガキ臭くて、
自分勝手なイラついた気分にコイツまで巻き込んじまって情けない。
だから無理やりハサミを奪い取った。

「何、素直に謝ってんだよ。ほら、てめーのも切ってやるよ」

でっかい手。
指を取り、滑稽なぐらい小さいはさみを伸びた爪の根元に当てて少しづつ切る。
子供の頃と比べるとやっぱり上手になった気がする。
これなら指を切らなくて済みそうだ。ま、硬くて切りにくいけど。

おふくろの爪はたぶんもっと薄かった。
細い指。俺より少し低い体温。
今だったら、傷つけることなく切り揃えてあげられたかな。
ま、現実には、高校生にもなって母親の爪を切るなんてこと、ありえないけど。

急に雨がひどくなってきた。
障子を通して叩きつけるような雨音が聴こえる。
大きな雨粒が地面にぶつかってはじけ飛んでることだろう。
雨戸、閉めなくていいんだろうか。

恋次の指は長くて太い。
刀を握ってるだけあって、節くれだってる。傷跡もあちこちにある。
でも爪自体の長さがあって、形がきれいだ。
俺の短めの丸い爪とは形が全然違う。
じっくり見たことなかったな。
こんなところに、こんなキレイなもの、隠してたんだ。
今まで気付かなかったのが悔しい。
急にその指先が欲しくなる。
でもその衝動が気恥ずかしくて、つい大声で話し出す。

「オマエの爪、長くて固いな。すっげー丈夫。ガタイそのままって感じだな」

雨音を聞いていたのか、外のほうを向いていた恋次がこちらに向き直る。
ほら、と切った爪を見せる。
それを受け取った恋次は掌で転がして遊ぶ。
さらさらと軽い音を立てて、恋次の両掌の間を行ったり来たりする白い爪のカケラたち。

「・・・そういえば、こういう爪してると体が丈夫で強いから良い働き手になるってんで、
 もらい口があるんだって言われて・・・・」

急に途切れた声を不審に思い見上げると、掌で顔下半分を塞いだ恋次。
爪は畳の上にこぼれ散らばっている。

「どうした?」

返事がない。

「どうした?」

顔を覗き込んでもう一度繰り返すと、ようやく焦点が俺に合う。

「いや、これ多分、現世での記憶だ。今の今まで忘れてた。なんてこった」
「・・・現世ってもう100年以上も前だろ?」

まったく年寄り臭いよな、と皮肉気に笑う恋次の眼はまた外に向けられる。
だから俺はまた爪を切り出す。
恋次の手をそっと支えて、指を切らないように、邪魔しないように。

どれぐらい時間が経っただろう。
とっくに爪は切り終わっているというのに、恋次は微動だにしない。
いつの間にか同じぐらい冷え切ったその指を引き、立たせる。

「ほら、もう寝ろ」

敷いてあった布団にそのデカイ図体を蹴りこみ、掛布団をかける。
灯火を吹き消し、隣の布団に潜り込む。

「・・・しねーの?」

隣の布団から不審気な声がした。

「しねーよ。」
「・・・俺がしたいっていっても?」

誘うなバカ。がんばってあきらめてんだから。

「今日は却下。雨天順延」

布団の下からくつくつと笑う声。

「そうだな、たまにはそんなのもいいかもな」

そうだよ、たまにだけどな。

「でも寒いよな。コッチこいよ。何もしねーから」



秋。
雨の音。
風呂あがりの湯気。
爪を切る音。
そんなものが重なって、遠い時間の彼方から郷愁を伴う記憶が呼び出された。
こんな夜に身体を重ねると自分勝手になりすぎて、互いが見えなくなる。
傷の舐めあいはイヤだから、触れるだけで我慢する。

雨は小降りになったようだ。溜まった水が地面を流れる音も聞こえてくる。
冷たい秋の雨で冷え込んだ空気を避けて、布団に深く潜り込む。
恋次の指をそっと口唇に当てると、その爪は思ったとおり滑らかで、
でも先の方は切ったばかりだから少し引っかかる。
でもこうやっていれば柔らかくなるだろう。
足の爪先だって、明日の朝には丸くなっているだろう。
そうしたら恋次、ちゃんとオマエのことだけ見れるから。
オマエもそうだろう?
だから今夜は記憶の波に委ねて、手足だけ絡めて眠ることにした。

もう雨の音は聞こえない。



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