こういうとき、互いにかける言葉の無いことは知っている。
「いてっ」
「あ、わりぃっ」
親指の先、血が少し滲んでいた。
「ほんと、悪い。固くってうまく切れなかった」
「ったりめーだ、ガキの頃のルキアと比べんな」
「・・・すまん」
そう謝るこの男の肩が妙に小さく見えて、ルキアの名前を出した自分もガキ臭くて、
自分勝手なイラついた気分にコイツまで巻き込んじまって情けない。
だから無理やりハサミを奪い取った。
「何、素直に謝ってんだよ。ほら、てめーのも切ってやるよ」
でっかい手。
指を取り、滑稽なぐらい小さいはさみを伸びた爪の根元に当てて少しづつ切る。
子供の頃と比べるとやっぱり上手になった気がする。
これなら指を切らなくて済みそうだ。ま、硬くて切りにくいけど。
おふくろの爪はたぶんもっと薄かった。
細い指。俺より少し低い体温。
今だったら、傷つけることなく切り揃えてあげられたかな。
ま、現実には、高校生にもなって母親の爪を切るなんてこと、ありえないけど。
急に雨がひどくなってきた。
障子を通して叩きつけるような雨音が聴こえる。
大きな雨粒が地面にぶつかってはじけ飛んでることだろう。
雨戸、閉めなくていいんだろうか。
恋次の指は長くて太い。
刀を握ってるだけあって、節くれだってる。傷跡もあちこちにある。
でも爪自体の長さがあって、形がきれいだ。
俺の短めの丸い爪とは形が全然違う。
じっくり見たことなかったな。
こんなところに、こんなキレイなもの、隠してたんだ。
今まで気付かなかったのが悔しい。
急にその指先が欲しくなる。
でもその衝動が気恥ずかしくて、つい大声で話し出す。
「オマエの爪、長くて固いな。すっげー丈夫。ガタイそのままって感じだな」
雨音を聞いていたのか、外のほうを向いていた恋次がこちらに向き直る。
ほら、と切った爪を見せる。
それを受け取った恋次は掌で転がして遊ぶ。
さらさらと軽い音を立てて、恋次の両掌の間を行ったり来たりする白い爪のカケラたち。
「・・・そういえば、こういう爪してると体が丈夫で強いから良い働き手になるってんで、
もらい口があるんだって言われて・・・・」
急に途切れた声を不審に思い見上げると、掌で顔下半分を塞いだ恋次。
爪は畳の上にこぼれ散らばっている。
「どうした?」
返事がない。
「どうした?」
顔を覗き込んでもう一度繰り返すと、ようやく焦点が俺に合う。
「いや、これ多分、現世での記憶だ。今の今まで忘れてた。なんてこった」
「・・・現世ってもう100年以上も前だろ?」
まったく年寄り臭いよな、と皮肉気に笑う恋次の眼はまた外に向けられる。
だから俺はまた爪を切り出す。
恋次の手をそっと支えて、指を切らないように、邪魔しないように。
どれぐらい時間が経っただろう。
とっくに爪は切り終わっているというのに、恋次は微動だにしない。
いつの間にか同じぐらい冷え切ったその指を引き、立たせる。
「ほら、もう寝ろ」
敷いてあった布団にそのデカイ図体を蹴りこみ、掛布団をかける。
灯火を吹き消し、隣の布団に潜り込む。
「・・・しねーの?」
隣の布団から不審気な声がした。
「しねーよ。」
「・・・俺がしたいっていっても?」
誘うなバカ。がんばってあきらめてんだから。
「今日は却下。雨天順延」
布団の下からくつくつと笑う声。
「そうだな、たまにはそんなのもいいかもな」
そうだよ、たまにだけどな。
「でも寒いよな。コッチこいよ。何もしねーから」
秋。
雨の音。
風呂あがりの湯気。
爪を切る音。
そんなものが重なって、遠い時間の彼方から郷愁を伴う記憶が呼び出された。
こんな夜に身体を重ねると自分勝手になりすぎて、互いが見えなくなる。
傷の舐めあいはイヤだから、触れるだけで我慢する。
雨は小降りになったようだ。溜まった水が地面を流れる音も聞こえてくる。
冷たい秋の雨で冷え込んだ空気を避けて、布団に深く潜り込む。
恋次の指をそっと口唇に当てると、その爪は思ったとおり滑らかで、
でも先の方は切ったばかりだから少し引っかかる。
でもこうやっていれば柔らかくなるだろう。
足の爪先だって、明日の朝には丸くなっているだろう。
そうしたら恋次、ちゃんとオマエのことだけ見れるから。
オマエもそうだろう?
だから今夜は記憶の波に委ねて、手足だけ絡めて眠ることにした。
もう雨の音は聞こえない。