今はただ、
この愛しい響きに耳を傾ける。
きみの奏でる音
で、一体どうしてえんだと、何回目かの問いを投げかけてみたが、やっぱり一護の返事は無かった。
ふてくされてるわけでもなく、意地になってるわけでもなく、枕を抱え込んだまま、困惑しきった表情で見返してくる。
困らせるつもりじゃなかったのになと頭を撫でてやると、眉間の皺は深いくせに、大人しくされるがままになっている。
せっかくの誕生日だ。
何がしたいってだけの簡単なこと、そんなに集中して考えなきゃなんねーことなのか?
久しぶりだってのに、やってる最中も上の空だったし。
他人のことだと見境無く走り出すくせに、自分のことになると立ち止まってしまう悪い癖は、どうやらこの先も続くものらしい。
俺はちょっとだけ笑って、
「オラ、もういい加減に決めろよ」
と一護の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
汗で湿った髪が、指に柔らかくまとわりつく。
「…うっせえ」
とついに枕に突っ伏してしまった一護の声はくぐもってしまい、よく聞こえない。
裸の肩と背中が、これみよがしに拗ねている。
「一護」
名を呼び、肩に手を置くと、引き始めた汗が掌に馴染む。
けれど一護は何の反応も見せない。
「一護?」
肩から背へと掌を滑らせると、一瞬強張ったが、すぐに落ち着いてしまった。
「…一護」
尖がった肩甲骨の先にそれぞれゆっくりと口付けると、やっと小さく身体が震えて返した。
体表に残る汗粒を丁寧に舐め取ると、背が本格的に反り返る。
それでもうつ伏せのまま顔を上げないから、いい加減折れろと、跳ねる身体に乗り上げて押さえつけ、腰の低い位置を吸い上げる。
そしてそのまま唇でゆっくりと背筋を遡り、止めに首筋を甘噛みする。
だが一護が顔を上げる気配はない。
こんなに身体はキツそうなのに。
俺はため息を殺す。
何度こんなふうに可愛がってやっただろう。
それなのにいつまでたっても硬さが取れない。
素直になんてなりゃしない。
けれど、そう仕向けてるのは俺かもしれない。
だってほら。
もうずいぶんと背も高くなった。肩幅も広くなってしまった。
手や足の大きさなんてほぼ同じ。
総体的にはまだまだ俺のほうが勝ってるとはいえ、出会った頃のように、この腕の中にすっぽり収まるようなことはなくなってしまった。
だからあの頃の一護を、そして俺たちを取っておきたかったと、心のどこかで願っているのかもしれない。
一護の背に、斜めに自分の上半身を重ねてみる。
そして肩甲骨の間に頬を寄せる。
逞しさを増した背が揺れ、くすぐってえぞと一護の掠れ声が降ってくる。
それを無視して眼を閉じると、微かに鼓動が聞こえ出す。
あの頃よりもゆっくりと、力強くなった音が。
この身体を知って、何年経っただろう。
最初のころは互いの誕生日を祝うことさえ念頭になかった。
当たり前だ。
あの混乱の中、そんな余裕なんかありゃしねえ。
互いの身体を貪るように求めたのも、実のところ、一過性のもんだと思ってた。
耐え切れない重圧を負い、果てしない渇望に倒れそうになっていた似た者同士の俺たちが、支えあうだの理解しあうだの何だかんだと理屈をくっつけて馴れ合った挙句の、要するに逃げ道みたいなもんだとも侮っていた。
だが全てが終わり、ようやく一護も人としての生活に戻った後も、俺たちは離れなかった。
それどころか親元を離れ、一人暮らしを始めた一護に誘われ、以前より気楽に訪れるようになった。
照れたり意地を張ったりしながらも、誕生日や季節ごとの行事を祝うことが互いの日常に溶け込んだ。
それが、いくつもの闘いを超えて、何度も死に掛けて辿り着いた俺たちの平穏。
ほんの些細な、けれどとても暖かいもの。
そして俺にとっては、初めて手に入れた大切な何か。
「オイ、恋次」
「…ん?」
「なんだ、起きてたのか」
「んー…、多分」
「んだよ、ソレ」
一護はくつくつと笑いながら肘を立てて上半身を起こした。
それでも背中にくっついたままでいると、重いだろと振り落とされた。
少しぐらいいいじゃねえかと文句を垂れると、じゃあ今度はこっちと、仰向けになった胸に引き上げられた。
その腕が予想外に力強かったのに驚いて、反射的に身体を離そうとしたけど、そのまま後頭部を引っつかまれて胸に押し付けられた。
「ふごっ」
「っせえ。じたばた動くな」
「テ、テメエ、何しやがる。離せよ!」
「いいから! …いいから少しは黙ってろって」
「一護…?」
真剣な声音に、何事かと黙ってはみたが、何が起こる気配もない。
一護も身動き一つしない。
それでいて抱きしめてくる腕がぎゅうぎゅうときつくなってくる。
一体、何なんだ。
訳が分からない。
もしかしてもう眠いのか?
今日はこの体勢で寝ろってか?
ったく身体を起こそうとしても、頑固な腕が巻きついたままで身動きなんてできやしねえ。
相変わらず勝手なヤツだぜ。
まあでもそれが一護の持ち味でもあるわけだしと、妙な理屈で納得した俺も反抗するのを止め、今度は体重を思いっきり一護の胸に掛けて力を抜いた。
すると一護は一瞬、息を止めたが、重すぎるぜという呟きと共にすぐに元に戻った。
そういや負けるが勝ちというのは、一護と相対して初めて実感したんだったなと笑いが漏れた。
思い返すと、始めたばかりのころの一護はやたら華奢に思えて、壊れてしまうんじゃないかって、喧嘩の時以外はこんなふうに全力で寄りかかることはできなかった。
なんか懐かしいよな。
一護の胸に顎を乗せたまま眼を閉じると、鼓動を感じる。
ことり、ことりと、音で聴く時とは別物のような軽やかな振動が規則正しく響いてくる。
あまりの心地よさに、とろりと眠気が襲ってくる。
あともう少しで一護の誕生日なのに。
今年こそ、その瞬間にオメデトウと言ってやろうと企んでたのに。
このままじゃ持ちそうにねえや。
やっぱ俺ってヘタレてるよなあ。
一護はどんどん大人になっていってるのになあ。
少し眼を開けると、一護の肌の色が目に入る。
友達と海に行ってきたんだという言のとおり、薄く日に焼けている。
今日も誕生日前ってんで、ずいぶん電話が掛かってきてたっけ。
明日の予定を訊く甲高い女の声とかもして、あの慌てぶりったら無かったなあ。
別にそいつらと出掛けたって俺は構わなかったのに。
ちゃんと知ってるんだぜ?
大学とやらに行き始めてから、新しい友達もよく遊びに来てるだろ。
帰りもうんと遅くなったりしてるだろ。
いつだったか、ふらりと遊びに来たとき、大騒ぎが繰り広げられてたこの部屋の窓はきっちりと閉められてた。
部屋の奥で笑顔の一護も、一護を取り囲む仲間たちも楽しそうで、邪魔をするのは憚られた。
だからもう、不意打ちで訪れるようなことはしなくなった。
連絡自体も、こういう慣習染みた逢瀬前以外はほとんど入れなくなった。
一護の鼓動に身を任せると、意識が遠のいていく。
ことり、ことり。
一護の心臓が優しい音を奏でる。
ことり、ことり。
何も間違ってなかったのだと、ただ時が過ぎただけだと諭してくる。
そんなことは分かってると俺の意地が反論する。
全部分かっていたことだと薄笑いさえしてみせる。
けれどそんな俺を嘲笑うように、またあの夢が始まる。
一護が消えていくあの悪夢が。
そこには子を成し、父親になって、しっかり年を取っていく一護がいる。
俺はただ見ている。
やがて一護は、幸せな顔で死を迎える。
けれどいつまで経っても尸魂界に姿を現さない。
俺は来る日も来る日も待ち続ける。
やがて待ちくたびれた俺は、世界の理を無視して歩き出す。
現世を、虚圏を、そして闇の中を。
そしていつの頃か、あちこちに零れ落ちた一護の気配を拾いながら、俺は笑うようになる。
砂の一粒を抱きしめ、天を仰いでこれが至福とばかりに笑う。
そこでやっと目が覚める。
汗びっしょりになって、息を切らして、夢で仰いだ天へ恐る恐ると手を伸ばす。
自分の中の弱さと本音をこれでもかとばかりに見せ付けてくるこの夢に苦しむようになってどれぐらい経っただろうか。
もうすっかり慣れてしまって、驚きもしない。
始まれば終わるものなのだと、波が過ぎ去るのを待つだけになっていた。
けど今日は、一護の存在に安心してたせいか、油断していた。
すっかり夢の世界に流されてしまっていた。
だから、
「…一護ッ!!」
と叫ぶ自分の声でその夢から覚めた。
早鐘を打つ心臓に押し出された血流が、狂ったように身体中を駆け巡る。
冷たい汗で皮膚がビリビリと粟立ち、頭がガンガンと激しく痛む。
呼吸困難に陥り、視界も狭まり、何も目に入らない。何も聴こえない。
ここはどこだ。
俺は何をしている。
「う…、クソ…ッ」
「…ん? どうした?」
髪を掻き毟りながら身体を起こそうとしたところへ、低く落ち着いた声と共に、手を押さえられ、はっと我に返った。
そこには一護が居た。
俺の両手を鷲掴みにし、少し細めた眼で俺のことを見上げてきてる一護が。
そうだ。
あれは夢だ。
夢だ、夢だなんだ
一護はちゃんと生きてる。
死んだら尸魂界へ行って、また新しく生まれ変わる。
あんなふうに消えてしまったりしない。
存在ごと失われたりはしない。
だからしっかりしろ、俺。
「…お、起きてたのか…」
「ったりめーだろ。テメーじゃあるめえし」
何とか取り繕って、もう一度、一護の胸に頭を戻すと、今度は自分の鼓動が耳に反射して騒がしい。
一護の音が聴こえない。
邪魔だ、俺。
どっかに行きやがれ。
俺は、抑えようのない焦燥感に流されそうになる。
この夢のあとはいつもそうだ。
神経が高ぶって、何もかもを壊したくなる。
逃げ出したくなる。
だが今は一護の前だ。
悟られるな。
何も無かったフリをして乗り切るんだ。
「う…、あ…、うん。悪りィ。なんか疲れてたのかもしんねえ」
「何、謝ってんだ。疲れてんなら寝りゃあいいだろ。ホラ寝ろ」
「あー…、そうだな。明日も早えェし」
「あァ、何だそれ?!」
何気なく口にした俺の言葉に、一護はがばっと半身を起こした。
「今日は泊まってくって言ってたじゃねえか。あれはウソか!」
しまった。
このところの口癖を、うっかり失念してた。
「あ…、いや、違う。す、すまねえ。そうだった。なんか妙な夢見てて…」
しどろもどろになった俺を、一護は剣呑な眼つきで睨んだが、ったくしっかりしろよな、この頃、働きすぎだろと、またごろりと横になった。
久しく見せなかったその不貞腐れた態度に、ひどい気まずさを感じた。
ヤベぇな。
感づいてやがる。
一護のところへ長居するのを避けるために、必要以上の勤務をこなし、予定を埋めていたことも、そしておそらく、本当は今日、来るべきかどうか、ずっと迷っていたことも。
だって、人間の誕生日だなんてそんな大事な行事、
俺みたいな規格外な存在が独占していいもんじゃない。
家族はもちろん、最近の一護は友達も多いんだ。
なんなら義骸に入って皆で祝うかと茶化し半分で提案したこともあったが、クソ真面目なツラで、二人がいいと言われた。
ま、あのころは一護もほんの子供だったしなと俺は内心、苦笑する。
とはいえ一護も年を重ね、ずいぶんと大人ってやつに近づいてきやがった。
それにこの頃、以前みたいに真っ直ぐに笑わなくなった。
俺といても、上の空で考え事をしてることが多くなった。
つまるところ、潮時なんだろう。
だから、コレを最後にするんだと決めて、
「もうちょいしたら行っていいか」
と連絡を入れた。すると一護は、
「もうちょいって、いつまで待たせる気だよ」
と
伝令神機の向こうで笑った。
その余裕が憎たらしくて、
「っせえ、忙しいんだよ。行ってやるだけででありがたいと思え」
などと息巻いてしまった。なのに一護は、
「分かってるって。だから絶対来いよ。…絶対だぞ?」
と急に声を落とした。
そして、その夜遅く、現世を訪ねたときに目にしたのは、窓枠に腰掛け、夜空を見上げる一護の姿だった。
俺を見つけたときのあのほっとしたような、それでいて困ったような顔が、今も眼に焼きついてる。
一護も迷っているんだ。
このままじゃいけないと頭を殴られたような気がした。
「…一護」
「恋次」
意を決して名を呼ぶと、一護と声が重なった。
肘を立てて上半身を起こすと、一護は苦笑いしてた。
「あのなー、一護…」
「つか俺、先な?」
「…は?」
「だってホラ」
一護が指差した先には、12時を少し回った時計。
「あ、もう時間じゃねえか! じゃあとりあえず、オメデ…、ふぐッ?!」
「あー、そりゃあもうちょっと後な。それより大事なことがあるから」
「ってテメエ…!! 何しやがるッ!!!」
「う…ごッ」
せっかく祝おうと口を開いたところ、掌で口を覆われ、先程からの混乱が絶賛続行中だった俺は、頭の中が真白になった。
そして思わず一護の腹に一発入れてしまった。
油断しきってたらしく、一護は腹を押さえて呻いた。
「う、痛ってェ…」
「い…、一護? 大丈夫か?!」
「うう…」
「わ、わざとじゃねえんだ…、つかマジで大丈夫なのか?!」
慌てて退いてみれば、一護は腹を抱えて丸くなった。
よっぽど苦しいのかと、恐る恐る背中を擦ってみたら、
「なわけねえだろ、このクソ恋次ッ!」
「おぐッ…!」
今度は俺が膝蹴りを喰らった。
テメエ、と拳を構えなおすと、一護がへらりと笑った。
「バカ恋次。簡単に騙されやがって」
「テメエ!」
飛び掛った俺は、だけど簡単にかわされた。
そしてそのまま抱きしめられた。
→君の奏でる音2
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