花中楼閣
夢の中をひとりで歩いてた。
そこは雑草だらけの川岸で、うっかり足を滑らせようもんなら水の中に転げ落ちそうな感じだった。
まるで古い映画にでも出てきそうな見知らぬ風景だというのに、違和感がないのが不思議で、
この懐かしい感じは何だろうと目を上げると、見渡す限りの桜並木。
盛りを過ぎる頃なのか、桜の花弁が真昼の陽光を透かしながら、ひらひらと舞い落ちてくる。
─── この桜、俺は知ってる。
桜の向こうに切れ切れにしか見えない空さえも、
遠い昔に睨みつけたときと同じ、あの色をしている気がする。
俺は辺りを見回した。
やはり見覚えの無い風景。
けれど身体が覚えてる。
懐かしさと痛みで胸がいっぱいになる。
─── ここは一体、どこだ?
見当がつかない。
大体、こんな場所に来たってんだったら、おふくろが生きてた頃に違いない。
なら、オヤジが大はしゃぎして、おふくろにたしなめられてるのを覚えてるはずだ。
だけど今の俺にその記憶はない。
ならば何かの勘違いなんだろう、それにこれは夢なんだしと、俺は改めて桜並木を見上げた。
─── あれ? でもこの桜…。
花に詳しいわけではないが、その桜花は見知ったものより色が濃すぎる気がした。
まるで恋次の髪の色を薄めたような、そんな色をしてる。
木を見ても、枝ぶりや花の付き具合が何か違う気がするし。
掌に桜の花弁を受けて確かめようとしたが、一枚残らず風に溶けて飛び去ってしまった。
目で追うと、その花弁たちは川面で他の花弁たちと寄り集まり、
空の蒼を深く映した水面を、少し紅の混じった鮮やかな桜色に染め上げていった。
─── どっちにしても奇麗なもんだな。
胸に満ちる満足感を覚えた。
だからいろんなことがどうでもよくなった。
だって今は春だ。
待ちに待った春だ。
ならばそれを愉しむ他にすることなどあるものか。
天を仰ぎ、腕を広げ、思いっきり息を吸い込んだ。
見上げた空には桜の花が今を盛りと咲き誇っている。
その向こうの空は、白く霞んでいる。
たまらなく奇麗だ。
俺は手を伸ばした。
夢だと分かっていても、どうしてもその桜花に触れてみたくなったのだ。
触れて春を肌で感じたくなったのだ。
だが、爪先立ちになってみても少し遠い。
もう少しなのに、指先が届かない。
桜の枝にも、空の蒼にも。
─── … いや、届かないから、いいんだ。
ほんの一瞬の後、俺は手を下ろした。
口元に笑みらしきものが浮かぶのが分かった。
その行動に、自分のことながら酷い違和感を感じた。
─── …あれ? 桜の枝まであと少しだったのに。
ほんの少し、飛べば届いたのに。
何で俺、止めたんだろ。何、笑ってんだろ。
らしくなさすぎる自分自身の思考と行動の不可解さについ、首を傾げた。
桜並木を横目に歩き出した自分の足元を見つめると、
自分が自分じゃないみたいな、奇妙な乖離感がどんどん強くなっていった。
─── 夢、だからかな。だから俺、こんなふうになんか違うのかな。
たまらず足を止め、桜の空を再び見上げた。
ざざぁっと強い風が吹いた。
春嵐の乱暴な風に桜の枝が揺れ、花弁が次々と降り落とされた。
桜の向こうに顔を覗かせた太陽が眩しくて顔ごと眼を逸らすと、
花に覆われ、息苦しそうに波打つ水面が目に入った。
なのに桜は容赦なく散り続ける。
吹き寄せられて塊となり川面でうねる。
風はますます強くなる。
桜花の渦が川面でのたうつ。
空を薄紅色の風が埋め尽くす。
もう風も波も区別がつかない。
このまままじゃ俺までこの渦に呑み込まれて消えてしまいそうだ。
俺も風に背を受けて、川辺へと向かった。
足先が水に浸かり、薄紅色の花弁がべったりと白足袋に張り付いた。
冬の残骸を思わせる冷たさに、
あれ、俺、今日、死神化してたっけと正気に返り、
と同時に、水面に反射している濃い赤色に気がついた。
─── あ、もしかして恋次か?
夢の中に居ることをもはやすっかり忘れ去ってた俺は、
慌てて背後を、そして桜の木の上を見上げ、声を上げた。
「オイ、どこに居る? 隠れてねえで、こっち来いよ」
俺の声は、気持に反していつになく低く、落ち着いてた。
それもそのはずだ。
俺の声じゃなかった。
しかも俺の眼は、恋次の真紅ではなく、もっと明るい橙色を探してた。
「… ?!」
思わず口元を掌で覆った俺の混乱を嗤うように、風がまたびょうと吹いた。
桜の花弁が叩きつけてくる。
顔に掛かる髪を掻き上げると、それは鮮やかな赤い色をしていた。
思わず水面を覗き込むと、呆然とした表情をした恋次が映りこんでいた。
頬に手を当てると、水の中の恋次も頬を撫でた。
─── ああ、俺は恋次だったのか。
俺はやっと悟った。
周囲を見回すと、それは幼い頃、仲間たちと駆け回った川辺だった。
─── だから此処がこんなに懐かしかったのか。
理解してしまえば何も問題があるわけでもなく、
春は春らしく、桜は桜らしく、世界に広がっているように見えた。
ここは俺の世界だと身体が知っていた。
そして、あんなに知りたい、近づきたいと思った恋次の全てが俺の裡に在った。
それは思っていたものとはずいぶんと違っていた。
─── オマエはこういうヤツだったんだな…。
今はすっかり理解できたその闇ごと、抱きしめてみる。
だがその体はやはり自分のもので、何も応えてくれはしない。
屈みこんで水面に顔を映してみても、虚しく波紋に消えてしまうだけ。
何も伝えてはくれない。
─── つまんねえもんだなあ。
思わず呟いてはみたが、ひとりの世界では何が起こり得るはずもない。
じゃあ恋次の方は何を考えてるんだろうと裡を探っても、
恋次でも俺でもある何か違う何かしかそこにはいない。
─── 俺は、一人なんだ。
その無為さが永遠に続くように思え、
唯、桜に覆われた空を見上げるだけしかできなかった。
→花中楼閣2
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