残響 2
一護を起こさぬようにと窓をそっと開けると、まるで雪解け水のような外気が流れ込んできた。
寝巻きの合わせからひやりと忍び込んでくる。
屠蘇代わりにでも呑もうと外に出しておいた酒にも、雪がうっすらと積もっていた。
今年の年越しは雪になったか。
古来の風習に従って、雪の中、参拝に出かける人々に想いを馳せると、
どこか懐かしい気分になった。
目出度いとされる行事をなんとなく避けるようになったのはいつの頃だったか。
今は、こうして酒を飲むだけで事足りるようになっている。
だがその消極的な慣習も、数刻後には終わりを告げる筈。
一護が、俺を連れて初詣に行くんだと張り切っているから。
否を唱えるための確たる理由が、俺にある訳もない。
手にした湯飲みに酒瓶を傾けると、氷温のそれはさらりと流れ出た。
畳に直接、腰を下ろし、硬い柱を背にすると、ひやりと寒気が背筋を走った。
暗い空を窓越しに見上げ、冷えきった酒を口に含むとひやりと舌に馴染む。
喉を焼いて胃の腑に滑り落ちたところでふうと息をつくと、酒精を含んだ冷気が鼻に抜ける。
こんな雪の夜は、酒が旨い。
眼を閉じると、新しい年を雪と共に迎え、喜ぶ人々の様子が思い浮かぶ。
いい年になりそうだ。
だが無意識に、側に置いておいた蛇尾丸に手が伸びていた。
今日は大晦日。
新年を前に誰もが浮き立っている。
こういう時には思いもかけぬ災厄、それも人災が起こりやすいものだ。
現に十一番隊時代は、酒を煽りながらも隊員全員が待機状態を命じられていた。
非番とはいえ、迂闊だった。
身に沁みて知っていたはずなのに、一護の来訪でここまで浮かれていたか。
尸魂界に異変がないか、妙な動きはないか、
眼を閉じ、蛇尾丸を握り締めて、感覚網を広げようとしたまさにその瞬間、
パンっと横っ面を叩かれたような酷い衝撃に見舞われた。
「…ッ!! クソ、なんだ今の…」
痛みを堪えつつ
眼を開けると、目前に一護が立ちふさがっていた。
「…オイ。テメエ、何してんだ」
「い、一護!!」
この衝撃はテメエの霊圧のせいか!
耳をすましたところに、銅鑼を一発打ち込まれたようなものだもんな?!
「驚かせんじゃねえ!」
「そりゃーこっちのセリフだっての!
中々帰ってこねえと思ったらこんなところで眠りこけて。死ぬぞ、テメエ」
きっと外からの雪明りのせいだろう。
オレンジ色の髪と共に白い寝巻きが闇に浮き上がって見えた。
だからだろうか。
妙に心細げに見え、その様子に目を奪われた。
俺も、一護の目にはそんな風に映っていたのだろうか。
「…自分の部屋で死ぬかよ。つか寝てねえ」
「テメーのことだし、どうだかな。…って何だよ、それ! 酒、飲んでたのかよ!」
「あ、いやコレは…」
「テメエ、そのせいか! 一人だけ飲もうってそういう魂胆で俺に寝ろって…!!」
「ち、違うぞ、それは…」
「いや、違わねえ!」
「つか、あ! こら! 飲むんじゃねえ!」
慌てて止めたが、一護は湯飲みの底に残ってた酒を一気に煽った。
そして、けほっとむせた。
「な、なんだよコレ…、すっげえ強えェ!」
「ったりめーだ、馬鹿野郎。テメエにゃまだ早えェ」
「んだよ、その言い方!
つか恋次、すげえ甘党なのに、なんで酒だけこんなんなんだよ?! …ズリィ」
最後の「ズリィ」があまりにも小さくて可愛い本音だったが、
せっかくここまで育てた若い男の矜持をいまさら突き崩すこともあるまい。
開けた窓の隙間から取り入れたもう一本の酒瓶を傾け、注いでやると、
とろりと流れる液体に、一護の目が釘付けになった。
「…何だよこれ」
「オマエ用」
「んだよ! 子供用って言いたいのかよ!」
「そんなんじゃねえよ。いいから飲んでみろって」
「…う」
疑心に満ちた上目遣いがおかしかったが、素知らぬ振りして促す。
それでもこの意地っ張りは中々口をつけようとしないから、
自分の杯も満たして、一気に飲み干してみせた。
すると、やはり悔しかったのだろう。
やっと舐めるように口にした。
「あ…」
「どうだ?」
「ん。結構、イケる。…つかこれ、いい酒だろ!」
「…オマエに酒の味がわかるのか? 親父さんに教えてもらったのか?
ったく、仕様がねえなあ。まあでも今日ぐらいは屠蘇ってことでいいだろ」
「んだよ、偉そうに! 酒ぐらい飲めるっての! つかまだ明けてねえから屠蘇には早えェ!」
「そうだっけ?」
「そうだよ! まだ除夜の鐘とか聞いてねえじゃねえか!」
「除夜の鐘…」
そんなもの待ってたのか。
「あ、もしかしてこっちでは無いのか、除夜の鐘?!」
「いや、あるけど」
「なんだ、びっくりさせんなよ。いつの間にか年が明けてたってんだったらシャレになんねえ」
「あ? 別にいいじゃねえか」
「良くねえ! こういうのはしっかりしねえとな」
鼻息荒く主張する一護を目の当たりにして、
朝になりゃあ年は明けてんだからどっちにしろ構わねえだろ、
やっぱり俺とコイツは根本から違うな、
育ちの良さってのはこういうところに出るんだろうと、くつりと思わず笑いを漏らしてしまった。
俺だって護艇に入ってからは、
それなりに節目節目を祝う習慣を身につけては来てるけど、やはり警戒心が先に来る。
そして、ほら。
頭のどこかで稼ぎ時だという声がしてる。
「恋次?」
急に、一護の真っ直ぐな目が疎ましく思えた。
ルキア奪還を誓う前の頃のように。
「どうしたんだよ、恋次」
「…いや、何でもねえ」
「んだよ?」
「ほんと、何でもねえんだ。…そうだな。除夜の鐘ぐらいちゃんとしねえとな」
「だろ? なんかさ。一年って早えェよなあ…」
そう言って窓の方を見遣った一護の横顔は、無邪気に年越しを待つ子供のそれだった。
…成程。
目出度いと浮つく人の心に漬け込んで、
食い扶持を掠め取ってきた習い性は、中々抜けるものではないらしい。
だからほら。
こんな風に刀を手にしていないと落ち着かない。
職務と大義名分を掲げ、刃を向けようとしていた先は、自分の過去の姿に他ならない。
何を察したか、背後で蛇尾丸がカタリと音を立てた。
→残響3
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