残響 4 



「…ッ」
「恋次…? 大丈夫か?」
「…」

一護の口の端に、少しだけ血が付いていた。
その血を拭い去ろうと手を伸ばしたら、逆にその手を取られた。

「いち…」
「手、大丈夫か? 何やってんだ、オマエ」
「…」
「ん。大丈夫。少し皮が剥けただけ」

俺の手をポンポンと叩いた後、一護は自分の両掌を俺の両頬に当てた。
そして真剣な眼で覗き込んできてた。

「どうした、恋次? なんかやっぱヘンだぞ、今日のオマエ」
「…いや」
「なんかイヤなことでもあったのか?」
「…っせえ」

そんなんじゃねえのに。
イヤな目にあってるのは俺じゃねえのに。

いつもなら反射的に浮かぶ苦笑も、今回は出る幕がなかった。
混乱が過ぎて、どうしようもなかった。
結局、何も応えることのできなかった俺は多分、目をまん丸にしてたんだと思う。
一護は困ったように笑った。
それがとても穏やかで、もう子供だなんて呼べないほどのもので。

…やってらんねえ。

つい、視線を逸らすと、くつりと笑う音がした。

「…んだよ?」
「いや、さ」
「だから、何なんだよ?」
「懐かしいよな、それって思って」
「は…?」

一護はいきなり膝立ちになって、俺の頭を抱きかかえた。
そして髪をぐしゃぐちゃと掻き混ぜた。

「い、一護…?!」

突飛過ぎる行動に反応できず、俺は固まってしまった。

「あのさ! オマエさ。そうやってよく、眼、逸らしてたじゃねえか」
「…は?」
「ほら。眼があったりすると、プイって。…んだよ。自覚無かったのか?」
「…無えよ。何の話だ、一体」

ウソだ。自覚はあった。
でも、テメエの生き様とか闘いっぷりとか無茶っぷりとか見せ付けられてるうちに、 嫌で嫌でたまらなくなって、だから止めた。

「そっか。ま、ずいぶん昔の話なんだけどよ」

昔ってなんだよ。
ほんのつい最近だろうが。

「けどさー、恋次。オマエって極端なんだよなー」
「んだよ」
「だってその癖、止めたと思ったら今度はガンつけてきてただろ?」
「…はぁ?!」
「ほら、そんな風にさ! 殺すぞって勢いで睨みつけてくるっていうか。…ま、最近は結構フツーになったけどな。目つきの悪さは相変わらずとして」

一護は、俺の目の端に両親指を置いて、思いっきり引っ張った。

「う…! テメエ、何しやがる!」
「へへっ。隙だらけだぜ。オマエ、よくそんなんで副隊長とかやってるよなー。信じらんね」
「んだと?!」

つか俺が睨みつけてきてた?

「まあ俺もさ。こういう性格だから、喧嘩、売られるとつい買っちまうってーか。だからあの頃は恋次と顔合わせるたびに、さー今日も喧嘩だって思ってた。なんか懐かしいよな」
「…そりゃあ、こっちの台詞だっての。つか懐かしがるようなことか、阿呆」

売り言葉に買い言葉で反射的に言葉を返せたとはいえ、 呆然としてた俺の声は、余りにも覇気を欠いていた。
一護は少し目を丸くして小首を傾けた後、ま、お互い様だったんだよな、と笑った。


本当は、 逆だろ、喧嘩売ってきてたのはテメーだろ、と怒鳴りたかった。
でも言葉に出来なかった。
あの頃の一護の視線のきつさは、俺の眼を映していただけだったと、どこかで俺も分かっていたからだ。


口を噤んでしまった俺に何も言わず、 しばらく 俺の髪を一束、また一束と指に絡めて遊んでいた一護は、
今度はコツンと自分の頭を俺の胸に押し付けてきた。

「…でもあの頃の恋次、すげえピリピリしてたから…」

顔は見えなかったが、一護がふわりと笑ったのが気配で分かった。
そういえばコイツは、俺が見てないところでしかそういう笑い方をしない。

「そういうのでもまあいいかって思って」
「…」
「それにオマエとは、喋るより喧嘩した方がいいような気がしてた」

ああ、確かに俺もそう思っていたよ。

「今はもうちょっと違うけど」

何がおかしいのか、こんどはしっかりと笑ったのだろう。
押し付けられたままの身体が細かい振動を伝えてきた。


今、思うと、あの頃の俺は、自分の不甲斐なさとか弱さとか、 長いこと眼を塞いできた事実と向かい合って、それなりにヘコんでいたのだ。
なのに、その事実を目の前に突きつけてくれたこの子供は、 自信過剰で、生意気で、イヤになるぐらい神経を逆立ててくれた。
その癖にすぐに傍に来るのだ。
だからすごく苛立った。
でも時々、ヤケに不安そうで、酷く孤独で、今にも消えそうに見えた。
だから放っておけなかった。
けど、一護の方から見たら、俺の方も似たようなものだったのかもしれない。
ほんと、お互いさまだったのかもしんねえなあ。


見下ろすと、今や本格的に笑い出したらしい一護の肩が震えていた。

「一護…? オマエ、何笑ってんだ」

何も答えず、ただくつくつと笑っている。
なんだってんだ。

「オイ、一護!」
「なんかさー。あのころの恋次、猛獣とか猛犬とか、そんな感じだったなーって」
「んだと?!」
「いや、マジで。動物園から抜け出してきた猛獣かなんかを飼いならしてる感じだったぜ、今思えば」
「誰が猛獣だ、オイ!」
「…ま、今もあんま、変わらねーけどな」

心底、楽しがってる様子に、苛立ちが募った。

「クソ生意気言ってんじゃねえぞ。つか俺の方こそ大変だったぜ。色気づいたばかりの生意気なガキが理由も無くちょろっちょろしてたからなあ」
「…!! オ、オマエ、そういう言い方は無えだろ?!」

形勢が一気に逆転して本気でカンに触ったらしい一護は、 腹立たしそうに俺から身体を離した。

「まあ、あの頃のオマエはもっと扱いやすかったけどな」
「…恋次ッ!!」
「今はほら、生意気っつーか、背伸び盛りっつーか」
「もういいッ!」
「ま、頑張ってる分、少しは成長も見られるぜ? ただ俺としてはそうだな、あの時にだな、」
「ああクソ、黙れ! もういいっつってんだろ!! オマエ、ほんっとうにイヤなヤツだよな!!」
「そりゃどうも」
「褒めてねえッ!!」
「そうなのか? 俺は褒めてるぞ」
「こ…の、クソ恋次ッ!!!!」

いまや涙目になってしまった一護をいじくりながら思う先は、 やはり自分たちのことだった。

あんな風に睨み合いや喧嘩をしなくなったといっても、 形を違えただけで、俺たちの関係の本質はあの頃と変わっていない気がする。
ただ一護は、 素直に子供の部分を見せるようになった分、意地っ張り度は増してる気がする。
あと数年もすれば少年の部分は消え、すっかり男に変化してしまうとしても、きっと一護は一護のままだ。

じゃあ俺はどうなんだろう?
自分ではすっかり変わった気がしていたが、実はまるで変わってないこと、誰よりも自覚がある。
そして俺たちの変化は、人間の子供よりもずいぶんとゆっくりだ。
変わり往く一護の眼から、俺はどう見えているんだろう?
俺たちは一体、どういう形で遠ざかっていくんだろう。

→残響5

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