もし絶望ってもんに姿かたちがあったとしても、闇とか暗雲とか、そういうものではないと思う。
だって俺の前に立ちふさがるのは硝子の壁。
薄く脆く、でも全てを遮るソレは、絶対の隔壁となり其処に在り続ける。
奔流
誰もいないはずのがらんどうの俺の部屋に、何かの気配がして目が覚めた。
日はとっくに昇ってる。
カーテンさえつけてない俺の部屋は、いつも夜明けと共に明るくなる。
「・・・誰だ?」
「俺だよ俺、檜佐木先輩」
自分で先輩呼ばわりするか、普通?
「で、昨夜はどういう騒ぎだったわけ?」
呆れるようなセンパイの声が寝不足のアタマに降って来る。
「・・・別に。ただの祭り」
「そーかい。で、お前はそんな血塗れになってるって?」
死んでねーんだから放ってりゃいいだろ。
「・・・つーかなんで勝手に入り込んでる訳?」
「つーかなんでいつも鍵開けてる訳?」
口調を真似てからかってくるその余計な余裕が鬱陶しい。
礼儀上、声の主に向けていたアタマを枕に戻す。
酒だか煙草の飲み過ぎだか殴られ過ぎだかわかんねえが、
やたら痛んで存在を主張する頭も鬱陶しい。
昼前の青っぽく透明な光も鬱陶しい。
生暖かい布団も、まだ言うことをきく身体も、何もかもが鬱陶しい。
がさがさとモノを拾いあげる音がする。
顔に刺青を入れた見かけこそ真っ当でない、
でも案外中身は真っ当なセンパイは、かなり普通に世話をしてくれる。
当然真っ当に育っていないというのに、どこでそんな常識サマを拾い上げてきたのやら。
「・・・で、何しに来たんですか」
「別に何も。ヒマだからねぇ」
がさごそと物音は続く。
時々ため息も聞こえる。
耳から容赦なく入り込んでくる雑音対策に布団を被りなおした。
音と光が遮られて、体と同じ温度の布団が外との境をますます曖昧にする。
布団は薄く弱いながらも殻となって体を覆う。
まるで卵のようだ。
外が柔らかくて中が固いってのも皮肉だけど、
案外柔らかいもののほうが外界との隔絶能力が高いのかもしれない。
突然、自分で引き出した外界との隔絶というその言葉に記憶が甦った。
息をひそめろ、見つかるな。
耳を塞げ、音を聞くな、恐怖に食い殺されるぞ。
瓦礫の下は不安定なシェルターで、防空壕さえ存在しないソコでは唯一の避難場所。
無差別の爆撃、ピンポイントの殺戮。
そんなものを避けて生き延びる非日常的日常。
食いつなげ、人を押しのけてでも逃げろ、てめえの命はてめえの裁量次第。
負けたやつが悪い、死んだやつを振り返るな。
逃げろ!
過去へ遡りつづける、歯止めの利かない連想、記憶の濁流。
ネガティブになってるときは、どんなときに記憶の波が襲ってくるか分からない。
フラッシュバックって専門用語では言うようだけど、光というよりはむしろ津波だ。
空白になったかと思うと、痛みが、混濁した記憶が壁となって立ちふさがり、
一瞬の後に全てを飲み込んで濁流となり渦巻く。
苦しくてもがいて逃れようとするけど、
天地の感覚さえ失うような混乱は意識と身体の遊離を引き起こし、
仕舞いには濁流の中でもがくのが己自身とは思えなくなる。
だからあれは俺じゃない。
俺は宙からソイツを見つめる。
苦しそうだな、俺によく似ているなと思いながら。
宙に浮かんだ不安定な俺。
でもそれはそれで落ち着くもんなんだ、実は。
だってソコは俺が居ていい場所だから。
彼方から此方へ、此方から其処へ、濁流に逆らって居場所を探し続けるほうがよっぽどキツイ。
「で、恋次くんはかくれんぼですか?」
突然布団がはがされ、センパイの鬱陶しいぐらい整った顔が覗く。
過去の奔流から、今の現実に引き戻される。
布団の中の温さに慣れてた体には、外気温が厳しくって鳥肌が立った。
冷や汗。身体にこもった熱。突然の光に翻弄される暗闇に慣れた目。
全てが痛む。だから帰ってきたくなかったのに。
なんでこの人はいつもいつも俺を引き戻しにくるんだろう。
放っといてくれればいいのに。
「また刺青入れたのか」
センパイの視線が俺の腹の辺りを彷徨う。
「なんか腫れてねぇか? ちゃんとクスリ飲んでるか?」
「・・・別に痛くねーし」
検分するようなセンパイの視線が鬱陶しくって、
別にダイジョウブっすよと、わざと跳ねるように起き上がる。
センパイの細い吊目がますます厳しくなるけど、それは無視。
振らつく体はなんとか制御可能。
なんとなく片付いた風の部屋に、服を脱ぎ捨てつつ風呂場へ向かう。
血がこびリ付いたままだから、皮膚からはがれるときにびりっと高い音がして、
その非難めいた響きに苛ついた。
奔流 2>>
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