奔流 2

 

昨夜は本当にやばかった。
久々の崖っぷちギリギリ。
でもあともう少し、だったのに。

なんだったんだ、あのガキは。
頼みもしないのに勝手に人の喧嘩に割り込んできやがって、
挙句の果てに人を見下ろして大丈夫かだなんて偉そうに。
ああいう手合いが一番嫌いだ。
人に何かしてやれると思い上がってるような輩、
自分が他人を助けてるんだと勘違いしてるあの真っ直ぐな眼、
躊躇いなく伸ばしてくる細い手。
裏切られたことなんて無いんだろ。
あの手、噛み千切ってやればよかった。
思い出すだけでイラつく。
今度会ったら殺す。

熱い湯を浴びると、傷跡がヒリヒリと痛んで心地いい。
口の端、身体の傷。
切れたところを抉るように擦って、
ウザい瘡蓋を取り去るとまた血が流れ出してきた。
鏡を覗くと、傷と青痣に彩られた俺の顔。
鬱陶しい。
この顔も髪も体もどこまでついてくるんだか。
どこまでが自分なんだか。
中身がくたばってるんだから、いい加減外側も瘡蓋のように剥がれ落ちればいいものを。
積極策に出れないのは生に執着があるせいか、恐怖が残っているせいか。
まあでも解決がつかないものを無理に引きずり出すこともない。
明日考えればいい。

半ばずぶ濡れのまま、下着だけ穿いて髪を拭き取りながら部屋に戻ると、
窓際の椅子にどっか腰を下ろして、センパイが外を見てた。
アルミのサッシが光を反射して、顔の傷跡を照らしている。

「あれ、まだ居たんっすか。いい加減帰れば」
「メシ食ったらな。ほら食え」

テーブルの上に置かれたビールと弁当が指差される。

「・・・つーかアンタじゃなくて俺がメシ食ったらってコトっすか」
「そういうこと。ほら」

こういう先輩風吹かせてくるときのセンパイはいい加減頑固なんで、
後輩としてはおとなしく言うことを聞くに限る。
食欲をそそるように色よく配置された模型みたいな弁当。
食べたくもないけど、無理やり詰め込む。

「・・・うげぇ」

妙な味の飯が喉に詰まって、吐き戻してしまった。
げほげほと咳を続ける俺に、センパイがビールを渡してくれる。

「・・・センパイ、これ腐ってますよ、ヘンな味がする」

ビールを流し込んだらようやく喉の痙攣が収まった。

「阿呆。腐ってんのはお前だ。ちゃんと食ってねーだろ」

見据えてくる細い眼が苛立たしい。

「食ってますよちゃんと、つーかいい加減放っといてくれりゃあ俺も楽なんですけど」
「まあ俺もいい加減放りたくなるな、こんなんだと」

ため息ひとつ。
この人のこういうときの率直さは好ましい、と思う。

「で、狒々丸はどうしたんだ? 今日は見ないけど」
「サルは預けました、ウゼェんで」

センパイの眼が最大限に開かれる。
つってもかなり細くて、白眼に黒目が浮かんでて笑えるけど。

「どうしたんだ、サル呼ばわりして。名前、呼んでやらねえのか?」
「だってサルはサルだし、ヒトはヒトで、それが永遠の真理ってやつだろ」

ガリガリとアタマを掻いて下を向くセンパイの膝に、ビール缶を持ったまま向かい合って跨る。

「なーセンパイ、無駄口ばっか叩いてねーでさっさとやろうぜ。
 そのために来たんだろ?」

腕をセンパイの首に廻すと、また、ため息。

「なあ恋次、お前さあ。どうにかなんねーの、そのヤケっぱちな態度」
「なるようだったららどうにかしてるだろうよ、とっくに」

そう言って俺は残りのビールを空け、喧しい口を塞ぐ。
俺の口が冷え切ってるせいか、ビールの炭酸で麻痺しているせいか、
慣れてる筈のセンパイの唇や舌が妙に熱くて粘っこい。
その軟体動物みたいな感触に一瞬止めようかと思ったけど、
違和感もそのうち消えるだろうと思い直して舌を絡めた。
渋々動き出したセンパイの手もすぐにいつもの乱暴さを取り戻した。

俺は、センパイに抱かれながらも何故かあのガキのことを思い出していた。
手を振り払ったときに一瞬見せた、泣き出しそうな顔。
何も八つ当たりしてあんな子供を泣かすことはなかったと、少しだけ後悔した自分が不思議だった。
でもその理由を考え付く前に、センパイの乾いた手と痛みと快楽と、
そんなものが奔流を為して俺を押し流してしまった。
だからあのときのもどかしい思いはもう跡形もない。
何も見えない、何も聞こえない、カケラも覚えていない、明日にも繋がらない。

そしてまた俺は今日も、崖っぷちのギリギリまで走っていって待つんだ。
誰か、親切なヒトが俺のことを押してくれるのを。





DEAD END>>

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