夢に見るのは、指の隙間から落ちていく雫。
光を集め、キラキラ光りながら滴り落ちる。

どんなにきつく指を寄せても、
小さな痩せた手に溜めた泥水は、
走っていくうちに零れていく。
終には何も残らず、
死に水を取ることさえできない。

これを無力と呼ぶのだと後に知った。

 

 欠片
 


「やんだか」

いつもは、強く差し込んでくる日の光でそれとしれる夜明けも、
一晩中、雨雲に覆われていたから気がつかなかった。
やっと晴れ上がって、雲の切れ間から差し込む光が部屋を照らし、
その強さから既に起床時間を大きく回っていたことが知れた。

眠れなかった。
うとうとするたびに甦る映像が恐ろしくて、無理やり意識を浮上させた。
何度、繰り返したかわからない。
幾夜、続いているかわからない。
なんで今更。

ベッドの上、隣に丸くなって眠る狒々丸の毛並みに指を通すと、かさかさに乾いてしまっている。
一週間前、手放す直前にはあんなにしっとりと柔らかかったのに。
毛先は微かに冷たくて、でも地肌に触れると熱くて。
細い毛の間に含まれた空気が、とても柔らかくて暖かかった。

戻ってこなかったほうがよかった。
戻ってきてくれてよかった。

相反する気持ちに苛まれる。
結局どうしたかったかなんて自分でもわからない。
ただ、このままじゃダメになる。
それだけは確かだったから、狒々丸だけでも避難させたのに。

「戻ってきやがって、バカヤロウが」

口に出して呟くとヤケに芝居めいていて、笑いを誘う。

窓の外は、いつの間にか快晴。
あの高校生のガキの眼みたいに真っ直ぐに晴れ渡っている。

くつり、と笑いが漏れる。

なぜ俺は、あんな子供に真剣になった。
いつものように、適当にあしらえばいい。
脅して震え上がらせて、遠ざけてしまえばいい。
それでも関わってくるようならガキの一人や二人、殺してしまえば後腐れもない。
親兄弟だってしばらく騒いで、遺された自分たちを哀れんで、すぐ終いだ。
そんなもんだ、結局のところ。

アタマの中で、センパイの声が警鐘のように鳴り響く。

いいかげんにしろ。
オマエ、命を何だと思ってるんだ。
ヤケになるのはいいけど、他人に迷惑をかけるのは止めろ。
わかってんだろ?

「分かってますよ。・・・ああ、黙れウゼェ!」

眠っていた狒々丸がびくっと体を震わせる。
思いがけず強い口調になってたみたいだ。

「やっと起きたか」

そう言って背中を撫でてやると、くぅ、と小さく鳴いて俺の膝に頭を戻す。
まるでこの一週間の不在などウソだったかのようないつもの習慣。
こんなにも簡単に戻ってくる。

見上げてくる狒々丸の眼にまた、あの子供の眼を思い出した。

自分のことを人喰いだと言った。
俺と同じだと言った。
たぶん、嘘じゃない。
俺のことをカケラも恐れちゃいなかった。
それにあの年であの強さ、ケンカ慣れした様子。
ヤクザどもを叩き潰したときの狂気染みた眼光。
アイツもまともじゃない。
でもあんなに真っ直ぐな眼をしている。

つまり俺と違って、腹ン中まで腐ってるわけじゃないってことだ。
結局、何かがあるってわけだ。

くつり、とまた哂いが漏れる。

何も無い。
掬っても掬っても何もかもがこの指の隙間から零れていった。
もう、飽きた。
望むものさえ残っていない。

ふつ、と胸の奥、何かが蠢いて弾けた。

何故、俺だけが。
何故、アイツだけが。

ゆらり、と胸の奥に炎が宿る。
これは嫉妬。
妬みという名の暗く重い念。
耐え切れない後悔を昇華させようと、本能が自己防衛の名を借りて行動を起したもの。
それならば、身を任せてしまうのもいいかもしれない。
あの子供を徹底して潰してしまえば、この痛みも悪夢も消え去るかもしれない。

自分でも全く信じる気の無い、それでも思わず流されてしまいたくなる愚かな誘惑。

ぎり、と歯を食いしばり、勢いに任せてベッドの枠を殴りつけると、
酷い金属音が響き、裂けた拳の皮膚から血が流れ出す。
怯えた狒々丸が視界から消えた。

ふざけるな、俺。
他人に関わらせるつもりはない。
頼るつもりもない。
自分の始末は自分でつける。
それが、最後に残った自尊の欠片。




欠片 2>>

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