欠片 7

 

おいでよ。コッチだよ。早く早く!

アイツらの呼ぶ声がどんどん近くなる。
恐怖に捕らわれて、叫ぶことしかできない。
繋ぎとめててくれるはずのセンパイの声がどんどん遠くなる。
自分の叫び声で何も聞こえなくなる。

「くそっ、しっかりしろって、恋次! 恋次! オイ、恋次!!」

ビシッ。
意識が遊離するかと思った瞬間、頬に数発、鋭い衝撃が走り、ボケかけてた焦点が合った。
至近距離には、酷くイラついたセンパイの面。
両肩を鷲掴みにされ、ガクガクと揺す振られる。
爪が食い込んでいるのは分かるが、麻痺して痛みは感じない。

「・・・・センパイ?」
「こんのバカヤロウがっ」

痺れた手で口に手をやると、ぬるっとした血の感触。
本気で殴りやがったな。

「・・・・血ィ出てるし」

センパイの細い細い目。
真っ黒の瞳が揺れてる。

「文句言ってんじゃねーよ、あァ?」
「・・・すんません」

ガスッ。
今度は頭を殴られた。

「謝ってんじゃねえ」

見上げると、センパイが真剣に怒ってる。

「・・・何で怒るんだよ。わかんねーよ全然」
「テメーが寝ぼけてるからだろーが!!」

寝ぼけてねーよ。
ああでも傍から見れば、あれを寝ぼけてるっていうのか。
俺にしか見えてない夢みたいなもんだもんな。
くすり、と笑いが漏れる。

センパイの指が、俺の顔の皮膚の上を滑った。
いつもみたいに熱くて乾いた指じゃない。
冷え始めた俺の血が滑ってる。

「・・・・・笑い事じゃねーだろ。いっつもいっつも血塗れになって帰ってきやがって」

センパイが、手の甲で俺の頬の血を拭う。
真っ赤に染まったセンパイの手。
ヤケに旨そうに見えて、思わず齧ってしまう。

「・・・うわ、マズ」

鉄臭い味が口中に広がり、くつくつと喉の奥がケイレンする。
それが笑い声だと知ったのは、またセンパイが俺の頬を打ったからだ。

「笑うんじゃねえっつってんだろっ」
「・・・っせえよ。アンタにどうこう命令される筋合いはねーよ」
「筋合いの話してんじゃねーよ、いい加減にしろ。俺はオマエの・・・」

センパイが言い澱む。視線が揺れる。
そこで止まるなんて、バカ正直なアンタらしい。
手伝ってやるよ。

「俺の? 何? センパイなんだろ?」
「・・・あ、ああ。そうだ」

知ってる。
ずっと前から、そのことは知ってる。
俺たちは当の昔に終わっている。
ずるずると関係を引き延ばしているけど、どんどん乾いていくだけ。
あの頃はもう戻ってこないし、戻る意味も無い。
もう、終わっているんだ。

それなのにアンタは俺のこと、構ってくる。
こうやって抱きしめてくれる。
もう残ってるのは同情とか、憐憫とか、情とか、それだけなのに。
こんなのはかえって残酷なのに。
最初っからずっと一人の方が、うんと楽なのに。
それでもアンタはこうせずにはいられない。
そして俺も甘えずにはいられない。

それでもこんな時のセンパイの唇は、いつもよりずっと温かい。
床の冷たさと相まって、つい縋りたくなる。
だから悟られないように、なるべく自然にセンパイの肩を押し返した。
僅かに戸惑った風の先輩は、それでも俺の頬に手を伸ばしてきた。

らしくない。
去るものは追わないのがアンタの主義だろ。
強引なくせに、妙なところで格好つけるヘンな癖。

でもセンパイの指は俺の唇を辿る。
俺はその指を見つめる。
赤黒く固まった血ががさがさと皮膚を引っかく。
鉄の匂いがきつい。
さっきまで俺の体の一部だったくせに、もう異物だ。

センパイがまた顔を近づけてきたから、
閉じた瞼を縁取る黒い睫毛に意識を奪われた。

 

「・・・・・オマエ、血の味がする」

貪るだけの一方通行なキスの後、センパイが不満そうに呟いた。
自分で仕掛けといて、俺が応えないと文句をいう。
相変わらず勝手だよ、アンタは。
そして勝手な振る舞いの下に、いつも肝心なことを押し隠す。

「しょーがねーじゃん。こんな色だし」

そういって髪を摘んで見せると、なんだかセンパイは一瞬辛そうな眼をした。
ほんと、らしくねーよ。
どうしたんだよ、今日はよ。

「・・・すまねえけど、今日はもう帰ってくれよ」
「でも恋次」
「俺、大丈夫だし。狒々丸もいるし」

目を合わせずに立ち上がる。
多少、膝はふらついたけど、大丈夫に見えるはず。

「ほら、傷も塞がってきたし。包帯はどこだっけ?」

そうやって背を向けると、察しのいいセンパイは、そこの箱の中、と指示してから出て行った。
カンカンカンと、鉄の階段を降りていく音が、いつまでもこの伽藍堂の部屋の中、反響し続けているような気がした。

 

そういえばこれもセンパイの差し入れだと、
真っ白な包帯を握ったまま突っ立っていたのはほんの一瞬。
気がつくと、軽やかなメロディが部屋に鳴り響いていた。
一体どこから?
俺の部屋には、音を出すものは何もないというのに。
でも、床の上にセンパイのケータイ。

「・・・・仕様がねえなあ」

開けっ放しだったドアを抜け、外階段に出ると、遠くセンパイの後姿が見えた。

「センパイ、センパーイ! ケータイ!!」

でも遠すぎて声が届かない。センパイは振り向かない。

「ったくよお。しょーがねえ。ハイ、モシモシ、こちらヒサギシューヘイのケータイですけど本人じゃありません」

電話に出たのは若い声の女。
しょーがねーなあ。また女引っ掛けたのか。
遠くに消えていく先輩の後姿に、電話の女の幻影が重なる。

「あー、すぐケータイ、本人に届けますから、後で掛けなおしてやってください」

でも電話の声は、引継ぎの件で伝言してくれれば良いと続けた。
ってアレか。仕事関係か。オンナじゃねーのか。

「あ、いいですけど。ハイ、ハイ。ええ、書類ですね。何の?
 ・・・・わかりました。ハイ、伝えときます。本人喜びます。失礼します」

ただの事務処理の話。
それをセンパイに伝えればいいだけの話。
でも、俺の手足は血を失った時みたいに冷え切ってしまった。

聞いてねーよ、転勤するなんて。
それも本人の希望が通って、ってどういうことだよ。
何で、一言も言ってくれねーんだよ。

「・・・くそったれっ!」

俺は、ケータイをセンパイの後ろ姿に向けて思いっきり投げた。
塞ぎきってない手の傷から血が噴出して、宙に弧を描くケータイの後を追った。






瞑目 >>

<<back