八雲八重垣



「ちわーっ・・・と、居ないのか」

電車を乗り継いで、東京とは名ばかりの片田舎。
畦道をてくてくと歩き、田んぼに囲まれる目的のあばら家は昔懐かし、木の引き戸。
久しぶり講義が早く引けて、テストまで余裕もあるから遊びに来たけど恋次は留守。
こんなところに古い一軒家借りて、一時間以上かけて通勤するなんて本当に物好きなヤツだよ。
でもそのおかげでウチに頻繁に寝泊りしていくんで、俺としては都合がいいけど。

勝手知ったる他人の勝手。
鍵のかかっていない引き戸を開け放ち、湿った土の匂いのする三和土で泥のついた靴を脱ぐ。
畳敷きの居間を通り抜け縁側へ出て雨戸を開けると、目の前に開ける竹林の緑がきれいだ。
ここからの眺めは何時来ても好きだな。
足を投げ出して、縁側の端っこに座る。

「おう、来てたのか」

庭を横切って、恋次が大股でゆっくりと歩いて来た。
緑と青の柔らかい寒色系を背景に、結い上げた髪の紅が映える。
その揺れる鮮烈な色が眩しくて、思わず眼を細めた。
でもそんな俺を気にも留めず、ぞんざいに俺の髪をくしゃっとかき回す。

「ガッコーは?」
「休講になった。なんか急患入ったんだってさ」
「へー、残念だったな」
「ああ、かなり面白そうな講義だったんだけどな。最前線で活躍してる教授だから」

でも本当は、こっちに会いに来れた方が俺には大事で。

「で、テメーのほうは?」
「今日はシフト明けで今戻ったとこ。夜通しだったからちっと眠い」

そう言って大きなあくびと伸びをする。
・・・・チャンス?
いやいやいや。
今日は泊まって行くんだし、起き抜けの恋次はおいしいし、ここはぐっとガマンして。

「少し寝れば? 俺、ベンキョーしてるし」
「・・・いいか?悪いな」

そう言って恋次は縁側から上がりこみ、丸めた座布団を枕にして俺の横に寝っ転がった。
日の光、まぶしくないのかな。見上げると竹林の背後に立ち上る入道雲、蒼い空。
その雄大さに圧倒される。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

湧き上がる雲の様に、最古と言われる和歌を思い出す。
あれは恋次と出会った高校生の頃、国語の授業で習ったんだ。
農耕社会がどう、信仰問題がこうといろいろと解釈があって面倒くさいと思った。
幾重にも重なりあった雲がすげぇ。それでいいじゃないか、と思った。
でも今はなんとなくわかる。
言葉には音と意味があって、だから和歌とか短歌になると魂が宿るんだ。
その魂は詠唱されることにより力を得て、俺達の魂と混じり合ってまた音に戻り、天へと昇華していく。
全ては廻る。輪廻の輪となって永遠に続く。
俺も恋次も輪の一点に過ぎないという、その無常。
だから声に出して詠んでみた。

やくもたつ やくもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを

表記記号としての漢字から解放され、ただ純粋なエネルギー波として口から滑り出る音の羅列。
やっぱり何かの力を孕んでいるような気がする。
口から滑り落ちるその音は儚いけど、でも大気中で確かに一瞬、光みたいに煌めいた。
思わず手を差し伸べる。

と、どさっと恋次が寝返りを打った。

うるさかったかな。
そういえばこの和歌、新婚の妻を人に見られたり取られたりしないように
雲で十重二十重に垣根を作って隠してしまうって解釈もあるって言ってたな。
そんなら、俺にぴったりだ。
別に隠してしまおうなんて思わないけど、いつも側にいて、護っていたい。
俺、自分がこんなに独占欲のカタマリだなんて思わなかったけど、
でもスサノオの神様まで同じなんだったら、古代からオトコなんて、そんなものかもしれない。
コイツはどうなんだろう。恋次も男だけど、こんなこと考えることがあるんだろうか。
なんだかいつも俺と距離を置こうとしてるように感じられるのは勘繰りすぎか。

脇で眠る恋次の髪を梳く。
起きているときは滅多にさせてくれないけど、こうやって髪を梳くのが好きだ。
未練残すことなく指の間を通り抜ける髪は、滑るような触感で例えようのない官能を引き起こす。
更に紅は光を反射して容易に色を変えるから、視覚まで刺激されて止めようもない。

まだ昼だけど、キスぐらいはいいだろ?

その一束を軽く指に絡ませたまま、ゆっくりと顔を近づける。恋次の寝息が感じられる。
眼を瞑ったら、視覚以外の五感が研ぎ澄まされてくる。
いつもの熱、いつもの匂い、そんなものを期待してそっと唇に触れた。

と、少なくともそう思った。
でも徹底的に俺を裏切る何か。
く、臭い。それにザラザラしてっぞ?
なんだこりゃ?!

「うっぎゃぁぁーーー!」

目の前に、いや、恋次の顔を覆うように突き出されていたのは明らかにヒトのものではない手。
いつの間にか横に鎮座している白猿。

「テ、テメーっ!!出たな、狒々丸!!」

こんなもんにチューしちまったのかよ俺は!!
口を慌てて拭う。
俺の叫び声に目を覚ました恋次は、ちらっと俺に一瞥をくれた後ダルそうに、
「・・・よぉ、狒々丸」
と、猿に抱きついた。

違うだろ、ソレ!
ソコ、俺のポジションだろ?!
寝起きの恋次、一番おいしいとこ持って行きやがってこの猿!
もふもふと恋次に抱きつかれている猿の眼が笑っているように見えるのは気のせいか?

そのまま猿の腕の中、二度寝に入る恋次を横目に俺は誓った。
思いっきり八重垣でも二十重垣でも作ってやる!
しっかり囲い込んで厳重封鎖してやるからな、待っとけ、この猿!!



極東エデン>>

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