Iceberg 3



「おい、ついたぞ、起きろ、涎拭け。オラ!!」

頬に走った強烈な痛みと音で目を覚ますと、恋次がいた。あれ? 何で恋次がココに居るんだ?

「おら、寝ぼけてんじゃねーぞ? もうつくぞ?」

紅い目が覗き込んでくる。・・・ああ、そうだった。電車だった、温泉旅行だった。
何の夢見てたんだっけ、俺。なんか凄く大事な夢見てたような気がするんだけど。

電車が急に速度を落とし、シートから落ちそうになってやっとはっきり目が覚めた。
網棚から恋次が下ろす荷物を受け取って、まだふらつく体で無理やりバランスを取りながら電車を出る。
そこは話で聞いてたよりずっとずっと、山奥、だった。

「・・・なんかすげーな、ここ。電車が止まるのが不思議なぐらいだ。
 俺んちも田舎だけど、これ、田舎ってレベルじゃねーぜ? 山、だぜ?」

確かに。目の前に立ちふさがるのは、野性味溢れる山肌。
駅とは名ばかり、駅舎さえないし、家もない。道だって駅前に一本だけ。

「右に道なりに行けばいいって聞いたから、多分この道、なんだろうな」

俺達は同時に道の先を見た。
春にはさぞかし綺麗であろう桜並木の下、ようやく車一台が通れるほどの細い道が続く。
荷物を抱えなおして、道を歩き出した。
幸い今日は晴天。高度があるせいか、肌寒いぐらいの冷たい空気が気持ちいい。
桜並木を抜けると、道の左手は急勾配の原生林といっていいほどの森、右手は渓流。
河原には大きく角張った岩がごろごろ転がっていて、渓流釣りとかするのによさそうだ。
その向こうは、白っぽいゴツゴツした岩肌をむき出しにした、見上げるほどの高さの切り立った崖。

「で、一体どういう温泉なんだ? ヤの人たち専用か?」
「まさか。そんなとこ行ってどーすんだ。つーか、高校のときの同級生に訊いたんだよ」

水色は、恋次みたいな奴にはここが一番いい、行ったら判るって言ってた。
俺と恋次のことを知ってる数少ない友人。

ほとんど山道といってもいいような急勾配の細い道を大荷物を抱えてひたすら前に進む。
ま、大荷物といってもせいぜい大きめのバックパックなんだけど、教科書その他が入ったままだからやたら重い。
時間がなくて、コインロッカーにおいてくる余裕さえ無かった。
だんだん息が上がってきた。横を見ると恋次は余裕みたいだ。荷物も少ないし。
俺、大学入ってから勉強ばっかりだから、体力落ちたのかも。でもバレるのはイヤだ。
だからせいぜい平気な振りして、ガンガン坂道を歩く。
恋次の前に出たら、今度は恋次が足を速めた。負けちゃいられねーってんで俺もまた速める。
そんでまた競争、走る走る。アホか、俺達は。
で、ぜぇぜぇと息を切らして汗だくでたどり着いたのは、渓谷を見下ろす山の中腹に立つ一軒の家。

「・・・なんか、普通の民家に見えるんだけど」
「看板とかもでてねーな」

でもあの駅で間違いないし、他に家もないし、行き止まりだし。とりあえず声をかけてみることにした。

「すみませーん」
「はーい」

思いがけず明るい声がして木とガラスの引き戸が開き、質素な感じの和服を身に纏った女性が出てきた。
この人が女将か。年齢がわからない。

「あの、黒崎といいますけど、こちらは・・・」
「黒崎さまですか?お待ちしておりました」

さあどうぞ、と通されると、そこは外見からは想像もつかないような広々とした空間。
余計な装飾物がなく、受付と思しきところに花が活けてあるだけ。
でも床は一見して磨き込まれた古い物だってわかるし、柱なんかもものすごくしっかりしたものだ。
壁の時計がカチカチと低い音を立てて時を刻んでいる。キョロキョロと周りを見遣る恋次と俺を、女将は奥へと案内した。
長い渡り廊下に沿って細長い庭。その先は突然切れ、例の崖っぷちが立ちはだかる。

「こちらです。お靴をどうぞ」

女将が運んでくれた靴を履いて案内されたほうに向かうと、
母屋とはだいぶ離れたところに、庵といった風情の建物が一軒建っていた。

「なんかアレだな。訳アリ慣れてますって感じだな。
 俺の刺青とか男二人とか、すっげー変な客なのに全然驚いてないぞ?」

恋次が耳打ちしてきた。
当たり前だバカ。訳アリ用のを探したに決まってんだろ。
俺らの髪の色、てめーの刺青と眼、ついでに男同士。これが訳アリじゃなくてなんだってんだ?

「・・・いーじゃねーかよ。放っといてもらえるんならソレが一番だろ?」
「ま、それもそーだな。で、どんな部屋だ?」

恋次はあっさり納得して、部屋に入っていく。ヘンなところで非現実的な恋次に呆れてため息が出た。
タイミングを見計らったように女将は、お茶を、といって母屋へ引き返したので、俺は慌てて恋次の後を追った。
こじんまりとした純和風の造り。なんか恋次の家を思い出す。もっともコッチのほうがずいぶん格上っぽいけど。

「おい、来てみろよ!」

恋次の声のほうに向かうと、庭の代わり、とても「風呂」とは呼べない規模の露天風呂が造りつけてあった。

「へぇぇ、こりゃーすげーや!」
「なんだ、テメー知らないで予約したのかよ?」

知るわけねーだろ。“訳アリ”だから、選べる身分じゃねーんだよ。選択肢の問題だ。あればソレを取る。いくら高くても。

それにしてもこの風呂、すげぇ。片側は生垣、反対側は岩が壁のように造ってあって、そして正面は崖だ。
よく見えないけど、崖とここの間、十数メートル下にはさっきの渓流があるんだろう。微かに水が流れる音がする。
屋外でありながらも部屋のようにしつらえてあって、それが全然不自然じゃなくて、
まさに「訳ありカップル用」って感じがする。
やべ。キそうだ。

「コレが温泉かぁ。すげーなぁ!」

そんな俺のテンションを知ってか知らずか、恋次は初めて見る「温泉」に無邪気に感動してる。
なんか、女の子を騙してホテルに連れ込んだオヤジの気分。
つーか、俺のほうが年下なのに、なんでこんな風に感じなきゃならねーんだ?
それにフツーの温泉って、こんなにスゲーわけねーだろ? テレビとか雑誌とかもうちょっと見ろよ。
・・・まぁでも喜んでるところ、無理に否定することもないか。
どうせ普通の温泉にはいけないんだし、また来るんだったら此処になるだろうし。
バイトはきつかったし、水色にはすげーからかわれたけど、やっぱガンバってよかったなーと思う。
もちろんこのツケはしっかり払ってもらうけどな!

とりあえず頭金ということで、飽きずに風呂と崖を見ている恋次の背中、肩に顎を乗せてみる。
抵抗はない。
だからそのまま身体をくっつけて、手を前に廻した。そっと抱きしめると、恋次も体重を後ろの俺に預けてくる。

恋次の息遣いが感じられるぐらいの距離と静けさ。
突っかえ棒みたいに互いの重さを支えあう微妙なバランス。
こういう瞬間が好きだ。
温泉だし、俺まだ若いし、男だし、やっぱスゲー期待して温泉来たけど、
こういう一瞬があるともうそれだけで満足しちまうってのはまだまだ甘い証拠なのかな。
なんだか俺ってほんっと未熟、と自覚した瞬間、ありがとな、って恋次がすげぇ小さい声で礼を言った。
どんな気持ちで恋次はそんな風に言ったんだろう。
顔が見えない。
俺は胸いっぱいになりながらも、なんとか取り乱せずに、どういたしまして、と応えられた。

恋次の背中に抱きついたまま肩口に顎を乗せて、漣の揺れる静かな水面に映る崖を見ていた。
さっき汗かいたばっかりだから、俺も恋次もまだシャツが湿ってる。
布に吸い取られた汗の匂い、湿り気、冷たくなった皮膚の下にこもったままの熱。
そんなもので裸のときよりも体温が直に伝わる感じがして、恋次をうんと近く感じた。

どれぐらいそうしていたんだろう。
恋次が、俺の手を掴んで外し、女将さん戻ってきたみたいだぜ、と言った。
俺には足音も気配も感じられないけど、コイツがそう言うんだったら、そうなんだろう。
他人の気配に敏感すぎるほど敏感で、野生の動物みたいにいつも警戒している。
そして獣そのままの動きで、するりと俺の腕の中から抜け出した。
戻るぜ、と俺の横を通り過ぎる瞬間、乱暴に俺の頭を引き寄せ、額に軽く口付けしていった。
まるで猫がすれ違い様に長い尾で叩いて挨拶していくみたいに。
なんだかいつもの恋次っぽくない。
微妙なズレと不意打ちに唖然として振り返ると、離れていく後姿が笑っているような気がした。

居間に戻ると、ちょうど女将が盆に乗せた茶器を持って戻ってきたところだった。
そのまま間取りを案内してもらう。寝間、露天風呂、台所と手洗い。
小さいながらも生活に十分な施設で、どうも長期滞在もできるらしい。
自分のモノサシでてっきり訳ありカップル用だと思っていたけど、ちょっと間違ってるような気がした。
女将は、7時に夕食をお持ちします、と言って母屋に戻っていった。

まだ日は高い。
恋次を風呂に誘おうか、それともいっそ散歩にでも行くか。
思案しながら茶を飲んでいたら、恋次がオマエも来るか、と言い置いて風呂に向かった。
散々悩んだ自分がバカみたいだと思った。

あっさりと着ている服を脱ぎ出した恋次。汗とこぼしたビールの匂いが漂ってくる。
それはともかく俺、目のやり場に困るんですけど。
そういう風になってからの付き合いも長いし、脱がしたり脱がされたりもしてるけど、
恋次はいつも暗いところを好むし、大体一緒に風呂入るの自体、初めてだ。
だからこんな風に服を目の前で脱がれると、ヘンに戸惑ってしまう。
所詮、男同士だから、風呂やプールなんかで見慣れてる風景のはずで、
それが恋次ってだけでいちいち戸惑うのがおかしい。
つーか俺達は男同士だけどアレだから別にいいのか、これで。

ぐるぐるぐるぐる。思考は無駄に廻る。

「おーい、入んねーのかぁ? きもちいーぞぉ!」

・・・いつの間にか恋次、湯船の中で手なんか振ってるし!
つーか、俺、いつのまにか見逃してるんですけどどーなんですか?!
いろいろ温泉行きに当たってこう、これがポイントだ!みたいなのをいろいろ考えてたんだけど、
その1、戸惑う恋次を無理やり脱がす、みたいなのはあっさり却下された。
その上見逃すなんて俺ってなんてヘタレなんだ、ちくしょーめ!

「まだ眠いのか?寝てていーぞ」
「なわけ、ねーだろ!」

慌てて俺も服を脱ぎ捨てて、風呂場に行った。
軽く体を洗って恋次の横、部屋側の風呂の縁にもたれかかって座る。
正面には、白い絶壁、その上に強いコントラストを為す蒼天。斜めから射す日が絶壁に陰をつくりだしている。
肌寒いほどの冷たい空気と、ちょっと熱めのお湯が気持ちいい。
どこか底のほうから湧き出しているんだろう。温泉にありがちな流れ落ちるお湯ってのがない。
ただ静かだ。

「・・・気持ちいーなぁ!」
「だろ?」

埋め込み式に造ってある風呂はあんまり深くなくて、でも広い。8畳分ぐらいありそうだ。

「ここさ、バリアフリーだな」

恋次の言葉に周りを見回すと、確かに段差らしい段差がほとんどない。
風呂にもなだらかなスロープがついてるし、さりげなく手すりも作ってある。
一見岩だけど、床なんかも滑らないように、でも痛くないように、なんか特殊な材質が使ってあるみたいだ。

「長期滞在も出来るようだし、たぶん療養所みたいな感じなんだろうな」

恋次の言葉に納得した。ハンディのある人とか大きな手術をした人とか、普通の温泉に行きたくない人も多い。
病気や障害ってのは、体や精神だけじゃなくて社交の部分も少なからず影響するからだ。
だからこんな風に、外から見えないように、それでも閉塞感が無いように造ってあると見当がついた。
フツーの温泉気分をフツーに味わえるように。
多分、俺達みたいな訳アリカップルはメインの客じゃない。

そう思うと少し気が引けた。
つーか俺、そればっか考えてねーか? ほんと、がっつきすぎ。
もともとは恋次を温泉に入れてやりてぇって思ったのが、温泉って言葉に触発されて突っ走っちまったみたいだ。
反省、反省。
がんばって稼いで恋次連れてきたんだ。恋次が喜ぶことを一番にしよう。うん、そうしよう。

あちぃ!、といって恋次が勢いよく湯から上がり、風呂枠に座った。
そのせいで俺にざばっと派手に湯がかかった。
しかも追い討ちをかけるようにばしゃばしゃとバタ足を始めたので、目も開けられない程の湯しぶき。
ガキかてめーは?!

「テメーもうちょっと考えろ!」

と怒鳴って俺も立ち上がった。が、目をあけるとそこには全裸の恋次が座ってバタ足。
なんだ?といった表情でコッチを見上げてる。
温まってほんのり赤くなった肌と、深紅色の濡れた髪、
それに濃さを増した刺青がもうなんと言ったらいいのか、アレもコウなってもう俺は・・・!

「・・・いちいち勃ってんじゃねーよ」

慌てて湯に潜って顔まで隠す。恋次の視線がイタイ。
せっかく俺が反省して落ち着こうとしてたのに、テメーのせいじゃねーかよ?!
誘ってんのか?!
でも鼻まで湯に浸かって文句を言ったから、俺の不満はブクブクと不明瞭な泡音にすり替わった。

俺のキビしい視線を感じたのか、あるいは身の危険を感じたのか、
テメーとは距離をとったほうがいいな、と言って、
恋次はザバザバと風呂の反対、つまり崖のほうに向かって歩いてった。
いや、それもある意味誘ってるみたいなモンなんですけど。
せめて湯の中に浸かったまま移動して欲しかった。
何も出来ず湯に顔まで浸かったまま、去りゆく恋次の尻、いや後姿を見送る俺。
ちょっと淋しくねぇ?

風呂の反対の縁、恋次は俺に背を見せて湯の中に腰を下ろした。
俺には全然関心がないみたいで、ぼーっと崖の上を見てる。
何かあるのか?
つーか初めて一緒に風呂に入って、テメーは何にも感じねーのかよ?
なんかこう、感情のアップダウンが激しすぎてクラクラしてきた。
何やってんだろ、俺。
恋次、ちゃんと温泉、うれしいのかなぁ。
俺、こんなに一人で暴走しちゃってまた呆れられたかなぁ。

でも何か本当にクラクラする。
耳鳴りもするし、視界も狭まってきたし。あー俺って小せぇ。
つーか、これって、もしかして湯あたり?
そう思ったときにはもう遅く、コントロールを失った俺の体は湯の中に滑り落ちていった。
最後に聞こえたのは、耳を塞いだ水音。




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