Iceberg 4
「どうもすみませんでした」
どこか遠くで恋次の声が聞こえた。
何謝ってんだろ?
誰かが出て行く音がする。
体中が熱いし、頭もぼーっとする。・・・ああ、そうだ。湯当たりしちまったんだ。
顔の上半分がひんやりと冷たくて気持ちいい。濡れタオルかなんか載せてあるんだろうな。
でも何で俺、こんなに眠いんだろう。せっかく恋次と温泉なのに。起きなきゃ。でも目が開かない。
髪をくしゃっと掻きまわされた。いつものよりずっとそっとだけど。
バイトしすぎだこの馬鹿、ムリしやがって、と、どこか忌々しげな恋次のつぶやきも聞こえた。
仕様がねーだろ。ムリでもしねーとこんなトコ、来れねーんだよ、学生でカイショーねぇんだよ。
テメーみてーにいつも隙をみて掏り抜けようってするやつ、どうやって引き止めていいかわかんねーんだよ。
どうやったって俺、いつも空回りじゃねーか。
俺のこと、見てねーじゃねーか。
俺、オマエが好きなのに、全然気持ち伝わってる気しねーし、
オマエが俺のこと、本当に好きなのかどうかわかんねーよ、正直。
イヤになりそうなんだよ、わかんねーのかよ、そういうの。
ダメだ、俺。弱ってる。
本音が弱音に化けてボロボロこぼれてくる。情けねー。
それもこれも、恋次がこんなに優しく俺の頭を撫でるからだ。
いつも小突いたり乱暴に髪を掻き回す程度で、滅多に自分から触ってこないくせに。
近づいてくるのは俺が寝てるときだけかよ。
遠くでヒグラシの鳴き声が聞こえる。
恋次の片手は俺の髪の中突っ込まれたままで、
髪を軽く指に巻きつけたり、地肌を軽く撫でたりして柔らかい振動を送ってくる。
紙が立てるカサカサとした乾いた音がした。
恋次はたぶんさっきの書類、読んでる。俺の見たことない顔して。
俺の知らない交友関係、想像できない仕事風景、一人のときの様子。
背を向けたときの表情さえ、見当がつかない。
なんか知らないことばっかりだ。俺、今まで恋次の何を見てたんだろう。
顔の上の濡れタオルをどけると、やっぱり紙の束を手にしていた浴衣姿の恋次が隣に居た。
何も言わず俺の頭を一撫でして、手を離す。笑顔も無い。だけど、目が穏やかですごく安心した。
大丈夫だ、まだ嫌われちゃいない。
「メシ、運んできてもらったから。もうちょっとだからオマエも休んで待ってろ」
と恋次は言って、書類に目を戻した。
そろそろ日が翳ってきた。
手が届くほどの距離、窓から射しこむ夕陽を浴びて、恋次の横顔がその髪の色ほどに赤く染まる。
胡坐をかいた恋次の足の付け根、そこにあった恋次の手をひょいと除けて、代わりに頭をのっける。
ちらりとこちらを見下ろした恋次は何も言わず、視線をまた書類に戻した。
許可が出たらしい。寝転がったまま恋次の顔を見上げる。
見続けている間にも少しづつ日が落ちていき、影も形を変えていく。
暗闇が支配する時間が訪れる。
俺達ももうすぐ終わる。
これは予感だ。
だから、完全に終わってしまう前に、少しでも長く恋次を見ていたい。
膝枕してもらって、ぴたりと恋次の腹につけた耳の中、心臓の音が聞こえる。
でもこれは恋次のじゃなくて、俺自身の独りよがりな心拍が反射しているだけ。
俺の濡れた髪が湿らせた浴衣の生地、その布越しに伝わってくる恋次の熱。
見上げると少し緩んだ浴衣の合わせ、半乾きで束になっている紅の髪、顎の線。
そして横には所在無さげに脇に置かれた恋次の腕。
さっき俺が無理やり場所を奪い取ってしまった。
じゃあせめてこの手の居場所をつくろう。
掌を包むように握り、ひとしきりその指を眺めた後、電車の中で触り損ねた指先を口に含む。
それはざらっとして、微かに苦味があった。
丁寧に爪の輪郭を舌先でなぞると、ところどころひっかかる。
「テメー、待ってろって言っただろ」
恋次のイラついた低い声がする。でも俺は指を舐めるのに夢中で構っちゃいられない。
いつ時間切れになるかわかんねーんだから、その前に全部味わっとかねーと。
「ああもう、やめろっつってんだろ?!」
恋次が手を乱暴に振り解いた。
「いつになったらテメーは分別ってモノを覚えんだ、ああ?」
夕闇の中、暗褐色に光る目が俺を睨みつけている。
「ねーよ分別なんてよ。テメーはあんのかよ、そんな高尚なもの」
殴られるかと思った瞬間、恋次が書類を背後に投げ捨てた。
乱暴な音を立てて舞い上がった白い紙がひらひらと薄闇の中、揺れ落ちる。
それに目を奪われてる隙に膝から振り落とされ、恋次に四肢を押さえつけられた。
俺の髪を鷲掴み、噛み付くようにキスしてくる。
角度を変えながら、吸い上げるように絡み付いてくる舌と唇。
少しでも緩めると何かが漏れてしまうと言わんばかりの激しさ。
開けたままの眼と、値踏みするような視線。
息をするのも忘れて夢中でその荒々しいキスを受ける。
しばらくの後、まだ唾液が糸を引く口唇をむりやり引き剥がして恋次が冷たく言い放った。
「気が済んだか」
吐き捨てられる言葉。
届かない俺の気持ち。
「済んだら向こう行ってろ」
「なんだよ、それ。さっきから何なんだよ、どうして俺のこと見ないんだよっ。
気がつかない振りすんなよ、一緒に来たんじゃねーかよ、見えない振り、すんなっ」
「で、テメーとセックスしろってか?」
「・・・悪いかよ。好きなやつとセックスしたいってそんなに悪いことかよ」
「テメーみてーに年がら年中、発情期じゃなけりゃあな」
「なんだよ、その言い方。動物みたいだって言いたいのかよ」
恋次が薄く哂った。
「まさか。動物に失礼だろ」
あまりの言い草に息が止まる。
恋次が嘲笑いを顔に浮かべたまま見下ろしてくる。
そして、薄い唇から吐き出されたのは冷たい誘いの言葉。
「いいぜ、相手してやるよ。それでいいんだろ?」
薄闇にギラつく眼。それが伝えるものは正しく、欲情。
なんだよ、それ。
さっきまであんなに静かで、ひとかけらの関心さえ見せなかった癖にいきなり全開かよ。
どこに隠してたんだよ、その色をよ。
オマエなんか変だよ、俺の知ってる恋次じゃねーよ。そんなにイヤになったのかよ俺のこと。
また噛み付くようなキスが始まった。
耳に響いたのは息継ぎと唾液、そして剥ぎ取られる浴衣が立てた衣擦れの音。
恋次の浴衣の合わせを掴んで乱暴に開くと、見慣れた刺青が薄暗闇の中、姿を現す。
散々指で辿って引掻き、舐めて噛んできたその墨、身体の動きに合わせて蠢く文様。
もうこれで最後かもしれないという焦りと共に、どうしようもない愛しさが込み上げてきた。
色欲だけじゃないキスがしたくなった。
だから、いつもするように恋次の頭を優しく両手で包んで引き寄せようとした。
だけど恋次は薄く哂ったまま眼を逸らし、頭を仰け反らせて俺の手を振り払った。
気持ちを、一番柔らかいところを踏み躙られたような気がした。
音を立てて恋次の身体を組み伏し、裏返して浴衣を半端に引き降ろす。
腕に絡めたまま浴衣の両袖を背できつく結んだからもう両手は動かない。
畳の上、為す術も無く横たわる背に乗り上げて、後ろから舐め上げて耳をきつく噛む。
背を少し反らせたけど、声は出さない。
いきなり縛り上げられたってのに抵抗もない。
無関心かよ、身体だけだからどうでもいいって訳かよ。
頭に血が上った。
乱暴に扱い、ろくに馴らしもせずに挿れ、突き上げて揺さぶって、何度も何度も達かせた。
力が抜けて自分の体重さえ支えられなくなるぐらいまで、痛めつけた。
恋次は何も言わなかった。
その口から漏れたのは、嬌声と悲鳴に似た吐息だけ。
最後まで俺のこと、見なかった。
何だってんだ、ちくしょう。
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