Iceberg 5
 


半時間も休んだあとだろうか。
やっと意識を取り戻した恋次が、布団代わりに掛けておいた浴衣を引っ掴んで立ち上がった。
俺に一瞥をくれた後、無言で足を引きずるようにして風呂場へ向かった。
残されたのは空っぽになった暗い部屋。
夕陽の光はカケラも残っちゃいない。
月も出ていない。

恋次、ちゃんと足元が見えてるだろうか。

秋の訪れを待ちわびる虫の声が地面近くから聴こえる。
遠く崖のほうから、せせらぎの音。
それに混じって湯を流す音がしだした。

恋次、大丈夫だろうか。倒れたりしてないだろうか。

部屋の中に残る、精液と汗の匂い。
ちゃんと拭き取ったはずなのに、空気に残っている。
窓から流れ込む清涼な風も、全部を吹き流せないでいる。
血の匂いがするのは気のせいじゃない。
俺が流させた。

ガタン、と大きな音がした。

「・・・恋次!」

走って風呂場へ向かった。着崩れた浴衣が足に絡まって走りにくい。
倒れた恋次を覚悟して風呂場に行ったら、
星明りだけの闇の中、佇む恋次の姿が白い崖を背に浮かび上がっていた。
浴衣を軽く羽織っただけで、彫像のように静かに。
陰になった横顔はいつもと同じ、少し俯いた下向き加減。でも何者の干渉をも許さない冷たさで、声を掛けられない。

恋次は何も言わず、眼も合わせず、静かに俺の横を通り過ぎて居間に向かった。
まるで俺は存在しないかのように。

せめて罵るか殴ってくれたらよかったのに。

俺は何も言えず、ただそこに立ち尽くした。
カサカサと音がした。さっきばら撒いた書類を集めているんだろう。
部屋を移動する音がした。荷物をまとめに寝所へもどったんだろう。
でも俺は恋次を止める術を、権利を持たない。自分で放棄してしまった。
当の昔に俺はあきらめていたんだ、本当は。
足掻くのを止めただけ。
届かないオマエを求め続けるのが苦しくなりすぎただけ。

奥の寝所から抑えた物音がする。
淡々と作業が進む様子が、冷たい横顔が眼に浮かぶ。
まるで、何事もなかったかのように。

遠くで雷に似た音がしだした。
雨が降るんだろうか。
あんなにいい天気だったのに。
何度も何度も天気予報を確認して、一週間先まで晴れるって聞いて密かに大喜びしていた。

それなのに雨は降る。
旅行も終わる。
予想もしていなかった形で。
いや、心のどこかでこうなることを知っていたのかもしれない。

ガキだ、俺は。
ひたすら求めればいつかは与えられると思っていたんだ。
好きだと叫び続ければ届くと思っていたんだ。
でも、あんな難しいヤツ、そんな単純なガキで繋ぎとめて置けた訳がないんだ。
言い訳だってわかってるけど、でも今は言い訳ぐらいしとかないと、ちゃんと立っていられる自信がない。
引き止めないで、縋りつかないでいられる自信がない。
ちゃんと、諦めろ、俺。

遠雷だと思っていた音がどんどん近づいてくる。
嵐か? いや、雷じゃない。何だ、この音は。
バリバリバリという、爆音に似た連続音。崖のほうからする。
そちらに目を向けた途端、何かがものすごい勢いで俺の横を通り抜けた。
恋次だ。
走り抜け、崖のほう、風呂場へ向かう。
俺も慌てて追いかける。
恋次は脱衣場を走り抜け、そのまま湯の中に飛び込み、
湯に足を取られながらも風呂の端に走り寄り、崖を見上げた。

一足遅れてそこに辿りついた俺の目に映ったのは、
青白く強い光を放ちながら崖の上に姿を現したヘリコプター。
自衛隊かなんかか? こんな真夜中に民家のこんな近くを通るのか?

耳を押さえてても何も聞こえないほどの凄まじい爆音がちっぽけな俺達を襲う。
音という耳で捉えるレベルを超えた振動が、身体全体を揺さぶる。
風圧と爆音で、建物全体が共振し、ガラスが甲高い悲鳴をあげている。
天井の無い風呂の水面は、叩きつけられる空気の固まりで沸き立つ。
その音と振動波のあまりの強さに体中の皮膚に鳥肌が立つ。

ヘリはかなりの至近距離、爆風を叩きつけながら頭上を通り過ぎていった。
近くに降りようとしてるらしい。建物の反対側でものすごい音がし続けている。
その振動は無遠慮に身体の芯、脳髄を貫く。もう何も考えられない。
これは音なんてレベルじゃない。
破壊音だ。全てをぶち壊す。

が、やがて唐突に音が止んだ。
静けさどころか、耳に残るキーンという音で頭がぐらぐらする。

「なんなんだろ、ちょっと見に行ってくる」

さっきまでの出来事を失念して、いつもの調子で恋次に話しかけてしまった。
やばい、と思って横を見ると、恋次は眼を大きく見開らいたまま凍りついたように
もう何もないはずの崖の上、暗黒に似た夜空を睨みつけていた。




Iceberg 6 >>

<<back