Iceberg 6
「・・・・恋次?」
声をかけても動かない。瞬きもせず、直立不動のまま身体がこわばりきっている。
「おい、どうした。大丈夫か?」
様子がおかしい。前に回りこみ、風呂の縁と恋次の間に無理やり入り、視界を遮る。
でもその視線は俺を通り抜け、崖へと向かったまま。
肩を掴んで軽く揺すって両頬を軽く叩くと、ようやく俺に焦点があったけど、
触んな、と軽く身体を捻って俺の手を振り落とした。
用済みになった空っぽの両手を見る。
ふらつきながら恋次は湯の中を部屋へ戻っていこうとした。
その体で駅に向かうのか。
「待てよ。俺が行くから。オマエはここで休めよ」
でも恋次は振り向きもしない。
丁度そこへ先刻のヘリがエンジンを始動した。爆音と振動が邪魔をする。
「恋次!」
叫ぶ声が届かない。
糞ったれヘリの馬鹿野郎、黙れよ、これ以上、邪魔すんな。最後なんだから。
ヘリのプロペラが撒き散らす振動と風で水面が再び泡立ち、俺達の身体を震わせる。
境界不明瞭。
どこまでが皮膚でどこからが湯だかわからない。
どこまでが現実でどこからが夢なのかわからない。
恋次が去っていく。
「待てよ、恋次!」
湯から上がる直前、夕方に俺と恋次が並んで座っていたあたりで恋次の足がもつれた。
そのまま身体が崩れ落ちる。
「恋次!」
洗い場の床、四つん這いになって、かろうじて身体を支えている。
顔を覗き込むと、呼吸がものすごく速い。眼がまた見開かれたまま。
「・・・関係・・・ねぇ、向こ・・う、行って・・・・ろ」
「んな訳行かねーだろ! 何もしねーから」
切れ切れの言葉は、ヘリの爆音のせいで聞き取りにくい。かろうじて唇の動きで言葉を拾える程度だ。
恋次の呼吸はどんどん早くなる。これじゃ過呼吸になる。
死ぬことはないけど、酸素過剰になって、痺れたり意識不明になっちまう。
本人はすごく苦しい筈。
本当は紙袋かなんか口を塞いで呼気中の酸素濃度を減らしてやるといいんだけど、
恋次、過呼吸の自覚がないみたいだし、今の俺が袋を口にかけても拒否されそうだ。
信用されてないから。
でもとにかく落ち着かせないと。
これは精神的なパニックだ。何が原因だ? 俺か? それともさっきのヘリか?
背中を撫でて、大丈夫と言ってみた。
身体はきつく強張り、眼は見開かれたまま。かなり苦しいのかもしれない。
拒否されないのを確かめてから、横から軽く抱いて、背中を軽く撫で下ろしてやる。
大丈夫、もう大丈夫だから、と、遠くなるヘリの爆音を聞きながら繰り返す。
恋次の速い呼吸につられそうになった。
でもここで一緒にパニくってどうするんだ、一緒に苦しんでまた自己満足かよ。
やってらんねーだろそんなの。
思いっきり深呼吸した。
呼吸を整え、恋次の背中をそれに合わせて撫でる。
吸うだけじゃなくてちゃんと空気を吐き出せるように。
ゆっくりと、確実に。
大丈夫だ。
何が辛いか知らねーけど、腹の中、全部溜めておくな。
少しづつでもいいから、ちゃんと吐き出す練習しろ。
オマエは強いから大丈夫だ。一人で無理なら、誰か探せ。
俺じゃダメだったけど、いつか誰か見つけて、そんで全部出せ。
そうしたら楽になるから。
本当に、本当に、ごめん。
恋次の背中を撫でながらそんなことを呟いていたと思う。
その耳に届いていたかどうかはわからないけど。
その強張った身体を包むように抱きしめていると、俺の呼吸が恋次に伝わっていくような気がする。
全てを拒否していたような恋次の、速くて吸う一方の呼吸が、だんだん落ち着いていく。
大きく見開かれたまま床を凝視していた目も、少しづつその動きを取り戻していく。
そして完全に俺と呼吸のリズムが合ったとき、恋次がため息をつくように、息を大きく吐き出した。
体が少し弛緩した。
床にうずくまったままの姿勢から、背中を丸めて緩々と体を起す。
軽く支えてやったら、膝立ちになってゆっくりと天を仰ぎ、目を閉じた。
いつの間にか、虫がまた鳴きだしていた。
どれぐらいそうしていただろう。
恋次が俺の手を振り解いて、ゆらり、と立ち上がった。
湯しぶきでまた濡れてしまった夜目にも紅い髪が、一拍遅れてその動きを追う。
俺に一瞥もくれず、ふらつきながらもまた奥の部屋を目指そうとする。
そんなに俺から離れたいか。
でも不思議と怒りも悲しみも湧いてこない。ただ虚しいだけ。
俺、こんなになるまで何をやっていたんだろう。
「ほら、せめて身体拭かないと」
追いかけていって、濡れた浴衣ごと体を大きなタオルで包んでやると、
眼は奥の部屋を向いたまま、恋次が動きを止めた。
不安定な体を支えながら、軽く水分を拭き取ってやる。
きっとまだ手足が痺れてるはずだ。意識も朦朧としてるかもしれない。
さっきのこともあるし、無理させられない。
濡れてるから全部脱げ、大丈夫だ何もしないから、と言って浴衣をとる。
抵抗するかと思ったけど、小さな子供みたいに、為されるがまま突っ立っていた。
身体は、刺青に混じって先刻俺がつけた痕だらけで、
脚の間にはまだ血が伝っていて、胸が痛んだ。
俺、なんてことしてしまったんだろう。自責の念ではらわたが煮えくり返る。
乾いたタオルで改めて包みなおし、居間の隅、壁が支えになるようにして座らせた。
気がつくと俺だってびしょ濡れで、足元の畳に水溜りをつくっていた。
「ちょっと待ってろ、着替え持ってくるから」
濡れた浴衣を脱ぎ捨て、自分の身体を拭きながら部屋へ戻る。
来たときに着ていた服が部屋に残っていた。汗とビールの匂いが漂う。
ほんの数時間前のことなのに。
はしゃいで弁当やビールの取り合いしてたのが、ものすごく遠い昔のことみたいだ。
何より押し付けを嫌うヤツだから、ココに残れって強制するような浴衣はやめておこう。
普通の服のほうがいいだろう。
でも恋次の荷物には下着とTシャツ以外着替えが入ってなくて、思わず苦笑した。
汚れるとか考えなかったのかな? 相変わらず、妙なところで迂闊なヤツ。
仕様がないから、自分の荷物を開けて着替えを取りだす。
身長の伸び具合を考えて買った服だから、恋次でも大丈夫だろう。
後で捨てればいい。
自分は部屋にあったもう一枚の浴衣を軽く引っ掛け、恋次の分だけ整えて部屋に戻った。
でも恋次はもう眠っていた。
タオルに包まれて丸まっていると、やけに小さく見える。
俯いているから表情が見えない。
髪がまだ濡れている。
その色が見えなくなるのをちょっと惜しいと思ったけど、タオルでそっと包んだ。
秋口だから夜は冷え込むかもしれない。
だから恋次の身体を布団でくるんで、俺もその横に座った。
もうちょっとだけ。
朝が近いのか、鳥のさえずりが煩い。
静かにしろよ、恋次が起きるだろ。
白み始めた空を睨んでいたけど、いつしか俺も眠りに落ちてしまった。
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