Iceberg 7
 


微かな物音で目が覚めた。
部屋はすっかり明るくなって、朝日特有の透明な光が差し込んできている。
横にはもう誰もいなかった。
恋次を包んでいたタオルが、乱雑に畳まれて置いてあった。
恋次用に持ってきた着替えも、俺の服は手付かずのまま置いてあった。
この小さな家、どこにも恋次の気配はない。
きれいに消えてしまっていた。

控えめなノックの音がした。
恋次か?
思わず玄関に駆け寄る。
引き戸を勢いよく開けたら、そこには朝食を盆にのせた女将が立っていた。
一瞬声に詰まったけど、ようやく挨拶を返すことが出来た。

「昨夜はお騒がせして申し訳ありませんでした。
 もう一組のお客様が急病になられまして、ヘリで輸送していただいたんです。こんな山奥ですから」

成る程、だからか。そのせいで、すごく恋次苦しんだんだけど、命と引き換えじゃあ仕様がないよな。

皮肉なもんだ。
二人っきりになりたくて、すれ違ったままの決定的な何かを修正したくて山奥の宿を取ったのに、
そのせいで完全に壊れちまった。

お連れの方はまだお休みですか、と女将が聞いてきた。
居間の乱雑な様子や手もつけられていない夕食にも動じる様子はなく、朝食を並べなおしている。

「多分、帰った、と思います」

大きく女将の目が見開かれた。

「すみません、こんな場違いなところに無理やり来て、しかもこんなんで。
 もう来ませんから。ご迷惑かけました」

頭を下げた。でもなんか、女将じゃなくて恋次に下げてるような気持ちだった。

「頭をお上げください。ここは唯の宿泊施設ですから場違いも何もございません。
 それにお二方のような方にこそゆっくりしていただくための宿ですから」
「・・・・でもアイツはもう帰っちまったから」

女将が躊躇うような風を一瞬見せたあと、口を開いた。

「これは申し上げていいことかどうかわかりませんが、
 黒崎様が湯あたりでお休みになっていらっしゃったとき、介抱をお手伝いしたんです。
 そのとき、ここの風景が、崖が見えるのが苦手だとおっしゃってました」

恋次がそんなことを?
だからなんか様子がヘンだったのか? 
らしくない振る舞いが多かった。

「昔のいやなことを思い出すのだと。お部屋を変えましょうかと申し上げましたが、
 いい思い出に変わるかもしれないから、と笑っておられました」

なんだよそれ。俺には一言もそんなこと言わなかったじゃないか。

「・・・・そんなこと、知らなかった。いい思い出どころじゃねーし。ずっと無理させてたし」

なんだよ俺。こんなこと、他人に話してどうするんだよ。
同情引きたいのかよ、それとも否定して欲しいのかよ。甘ったれんな、これ以上。
そんな俺の思惑を見透かしたように女将が微笑む。

「そのとき、詫びていただきました。
 すみません、コイツはまだ子供だからって。
 でもそうおっしゃるあの方の方が、子供のような目で黒崎様を見ておられましたよ」

子供の目?

「長く宿を致しておりますが、長く連れ添われたご夫婦でも、
 あのような目でお連れ様をご覧になる方は、なかなかおられませんよ」

そういって女将が微笑った。


行かなきゃ。
追いかけて、恋次、連れ戻さなきゃ。
なんかどこかが間違ってる。ズレてる。

外にこんなものが、と女将に渡された数枚の紙は、恋次の書類だった。
論文原稿らしきその紙には、タイトルと執筆者の名前が並んでいる。
執筆者は二人で、そのひとつが、Renji Abarai。
恋次だ。もしかしてこれ、恋次の論文なのか?
あいつ、飼育係じゃねーのか? なんでこんなの書いてるんだ?
ああもう、わからないことばかりだ。
崖だってヘリだって何がどうなってんだか全然わかんねーし、大体この論文、何だよ。
何やってんだよ、何でこんなにいろいろと隠すんだよ、腹が立つ。
さっきまでの虚しさや気力の無さがウソみたいに、怒りで腹の中が熱くなる。

「そろそろ電車の時間です。急がれたほうがよろしいのでは?」

そうだ、論文なんて読んでる場合じゃねー、急がないと!
足を靴に慌てて突っ込んで走り出す。
坂道を駆け下りる。
左手には来た時と同じ姿で崖が立ちはだかっている。
違うのは日の光の照らしてくる方向だけ。

この崖が苦手だというのなら、坂をどんな気持ちで恋次は登って、そして下って行ったんだろう。
何も無い振りしてたのか、それとも俺が見なかっただけか。
俺を見ろ、無視するなって俺は恋次に言った。
でもそれは俺が言われて然るべき言葉だった。
どんな気持ちで恋次は俺の言葉を聞いたんだろう。
オマエも俺に、自分を見ろ無視するなって言いたかったか?
だったら言えよ。黙るなよ。
いつもいつも大人ぶって黙ったって、俺みたいな鈍いヤツには伝わらないんだよ。
だから昨日みたいに過呼吸起すんだよ。ちゃんと自分とか感情とか出せてねーじゃねーか。
俺もちゃんと見るからオマエのこと。
オマエもちゃんとその口使って言わなきゃいけないことは口に出せ!

坂道横の藪から、俺の足音に驚いた小鳥達が飛び立つ。
電車の音が渓谷に反響しだした。
下り坂なのに、来たときと違って足が重い。
もっと速く走れ、俺!
間に合え!

でもバラック建てより酷い掘っ立て小屋の駅に着いたときには、電車は走り出していた。

「恋次っ! オイ恋次ってば!」

電車追っかけながら叫ぶ。
他の乗客たちが、なんだというように俺を見ているけど、恋次の姿がみつからない。
ちくしょう、どこだ?!

「・・・・くそっ」

そのまま鉄橋に向かう電車を虚しく見送った。
自分の荒い息がやけに耳につく。
この、役立たずの糞ガキが。
肝心なときはいつも役に立たねーじゃねーか。

下り道を全力疾走してグラグラする膝を押さえながら、駅舎の時刻表を確認しに行くと、次は2時間後。
ちくしょうめ! なんでこんな糞田舎に来ちまったんだ!
今すぐじゃねーとダメなんだよ、恋次、一人であの家に帰しちゃダメなんだよっ。

「ちくしょうっ、恋次の馬鹿野郎っ」

俺だけじゃない、恋次だって俺のことを知らない。
たぶん、知らない者同士なんだ。
15の夏に会って以来、殺しあうようなケンカしたり、すげーベタベタした恋人同士だったり、
かと思うとテメーはあっさり居なくなっちまったり、いきなり普通に帰ってきたり。
俺にだっていろいろあった。暢気だった高校生活も妙に必死になった大学受験も終わったし、
勉強以外にもいろいろ手間がかかる大学生活なんてものも始まって、
近かった友達なんかも一気に散らばっちまった。本当にいろいろあったんだ。

俺達はそれぞれ、うんと変わっちまった。
同じでなんかいられなかった。
だから俺達はきっとまた、ゼロとかじゃなくてマイナスから始めないといけなかったんだ。
ちゃんと知り合うとこから始めて、互いを理解しようと努力して。
たぶんそういう時期だったんだ、少なくとも俺の方は。
そんで俺はもっとオマエに近づいて、もっと仲良くなりたい。
求めるだけの一方通行じゃなくて。



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