Iceberg 8
「待ってろよ、ヘタレ恋次の馬鹿野郎っ!」
ちくしょう、こんな論文なんか。
元はといえば、この論文を恋次があのオヤジから受け取ったときから、歯車がずれ始めてたんだ。
破り捨てようと握り締めていた論文に手を書けた途端、
「うわぁぁぁっ、待て待て待てっ!!」
叫び声に見上げると、生い茂る梢の上、見え隠れする紅。
秋だったら、紅葉にまぎれてごまかせたのかもしれない。
でも、朝日に照らされて輝く緑の葉の中、間違いようのないその紅が目を射抜く。
「・・・・・何やってんだテメー、猿か」
驚くより先に嬉しくって、でも口から出るのはやっぱり条件反射で憎まれ口。
「うっせー、その紙そこに置いてさっさと行け!」
「・・・早く降りて来い。じゃねーとこの論文・・・」
「うわ、待てってばこの野郎っ」
ばきっ、どざざざざ。
叫び声と共に物凄い音を立ててなんか落っこちてきた。
つーか、これ、恋次か。
葉っぱまみれで尻餅ついて、頭擦ってる。
「なんか、スゲー無様なんですけど」
「うるせーこの浴衣ヘンタイ男、パンツ隠せ」
自分を見ると前がぱっくり開いて、もうほとんど引っ掛けてるって感じの浴衣にスニーカー。
慌てて前を合わせる。
「ヒトの名前叫びまくって電車追いかけるし、テメー、ほんっと恥ずかしーよな」
「ううう、うっせーっ!」
古いアスファルトの上、胡坐かいたまま揶揄ってくる。
その一見冷たい表情、でも穏やかな視線はいつもの恋次で。
「ほら、さっさとその書類、寄越せ」
「つーか、なんでまだいるんだよ。俺、てっきりオマエは帰ったもんだとばっかり」
「・・・・金が無かったんだよ。だからテメーが帰るのを待って宿に金借りに行こうかと・・・」
恋次がそっぽを向いてバツが悪そうに答えた。
「・・・はぁ?何そのマヌケさ」
「つーか、テメーのせいだろう?!
テメーの財布がカバンの底だとか何とかで、俺が弁当代も切符代も全部立て替えたんだろうが、あァ?」
・・・そうだったっけ?
グッジョブ、俺。
「あ、顔、傷が出来てる」
さっき、木から落ちたときに切ったんだろう。
薄く血が滲み出したところを指で拭き取ろうと指を伸ばすと、触れる寸前、恋次の身体が強張った。
恋次の位置までしゃがみこもうとしていた動きを思わず止めた。
「・・・・・ごめん。本当に、ごめん」
目をあわせられない。だって、とんでもないことをしてしまった。
恋次の頬の血を拭うはずだった手を自分の膝に置いて上半身を支える。そうじゃないと立ってられない。
本当はうずくまって泣いて許しを請いたい。
でも本当に辛いのは恋次で、俺じゃない。最低だ、俺。
「・・・いや、俺のほうこそ悪かった」
思いがけない言葉に恋次を見ると、真っ直ぐに俺を見上げていた。
そこには蔑みも怒りも、ましてや冷たさなんてカケラもない。
「俺、オマエがすげーがんばってバイトして、いろいろ期待して温泉来たの知ってたのに、
自分のこと手一杯で構ってられなかった。挑発したのは俺だ。悪かった」
「なんでそこでテメーが謝るんだよ!」
思わず襟首を掴む。
いつだってそうだ、いつもいつも大人ぶって俺のこと、かばおうとする。バカじゃねーかテメー!
「俺が! 俺がガキすぎて、オマエの気持ちなんかわかんなくて、求める一方で!
だからあんなことになったんだろう?! テメーは被害者なのに、なんで謝るんだよっ」
「・・・・・違うぜ。俺がそう仕向けたんだ。わかんなかったか?もう終わらせたかったんだよ」
薄く哂って眼を逸らすその表情に、昨夜の夕闇を思い出す。
「いい加減、分かれよ、ちゃんと見ろよ。感づいてたんだろ、もう俺がやめたがってたの。
せっかく吹っ切れるようにお膳立てしたってのにわざわざ追いかけて来やがって」
そんな。言葉もでない。
恋次が億劫そうに立ち上がった。紅い目が、俺を見下ろす定位置に戻る。
「ま、そういうわけだ。今まで世話んなったな」
と、論文を取り上げ、俺の頭を軽く叩いて背を向けた。
俺、金借りに宿に戻るから、と離れていく後姿は何の感情も見せない、恋次の心が全然読めない。
その後姿が何か記憶と重なる。
既視感。いつか見た、この風景。
ああ、あれだ。来るときに電車で見た夢。
俺、恋次にありがとって言われる夢、見てたんだ。そんで、サイナラって。
そんで俺は笑って、じゃな、って言ってた、夢の中。
あれは、今、この時なのか?
そんなの、いやだ。こんなんで終わりなんて、受け入れらんねー。
走って追いつき、肩を掴んでこちらに向かせた。
「・・・・てめーふざけんなよ!
ちゃんと理由言えよ。俺が嫌いだって、ずっと本当は無理してたって、そう言え」
本当は違うんだろ? 違うって言えよ。
恋次は目を合わせない。視線が泳ぐ。
またなんか嘘ついてんのか、隠してんのか?
聞いてないことがいっぱいあるんだ。全然わかんねーんだよ。
でも恋次はちゃんと俺と視線を合わせて、馬鹿みたいに透明な目をして言った。
「俺はずっと無理してた。一護。オマエが嫌いだ。だから終わりだ」
決定打をもらった俺は、それでも未練たらしく数メートル離れて恋次の後をついて宿に戻った。
部屋に戻ると女将が待っていた。朗報ですよ、と。
昨夜ヘリで輸送された客がお詫びの代わりにと、予約していた一か月分の宿泊を提供してくれた、と。
いつでもいらっしゃって下さいって言われて戸惑って振り向いた俺に、恋次は言った。
「俺はつきあえねーよ。もうすぐ日本離れるから」
真っ直ぐな視線。
嘘やゴマカシじゃない。もう決まってることなんだ。
頭から血が引いていく音が聞こえるような気がした。
恋次は女将から電車賃を借りて、一足先に宿を去った。
そのときに見せた身分証は、大学職員のものだった。
「オマエ、飼育係って言ってたじゃねーか、これ、なんだよ?!」
「だから職員証だよ」
「でもこれ、講師って!」
「大学付属の研究所だよ。動物を飼育して観察してるんだ。
社会生態学っていってな。自分自身を知りたいっていう人間の欲望のための研究だ。
俺が研究対象にしてるのは、ヒトに近い霊長類。ま、ほとんど人間みたいなもんだけどな」
哀れんでるように見える、妙に優しげな微笑。
「だから、“猿”の飼育係だ」
口元が酷く歪んだ。
「・・・なんだよ、それ。なんでそんな言い方するんだよ、オマエらしくねーよ!」
「知らねーよ。俺らしく、とか」
わかってるよ。
俺は、オマエのことを全然知らなかったって、理解のカケラもしてなかったってことはもうわかった。
けど、そんな言い方。そんなヤツじゃない。
そのことだけは俺、よく知ってる。
「・・・でも、俺は知ってるんだ。恋次がどんなヤツかって」
「うるせー。駄々こねんな、これ以上」
「子供扱い、すんなって言ってんだろっ」
「実際、子供だろ?」
そういう恋次の眼は優しい。
そんな眼をしてるくせに、なんでそんな酷い言い方しかしない?
「・・・・・わかったよ、そうだよ、子供だよ。悪かったな。
でもオマエが好きなんだよ、もっとオマエのこと知りたいし、ずっと一緒に居てぇんだよ、悪いか」
恋次が、俺の頭にポンとそのでかい手を置いた。
「悪いんだよ。俺はテメーのそういうところが嫌いだった」
じゃあな、と俺の横を通り過ぎていく瞬間、いつもそうしていたように髪を軽く掻き回した。
俺は、夢の中みたいに笑顔でさよならって言えなかった。
最後の最後まで無様だった。
ガキはガキらしい振る舞いしか出来なくて、その振る舞いってヤツに俺の器ってモノが見事に出てて。
情けないったらありゃしねー。
やってらんねー。
涙さえ出やしねー。
恋次とは別の電車で街に戻った。
何も変わらない、いつもと同じ喧騒、同じ夕暮れ。
明日は日曜で、明後日は月曜で、いつもと同じ日常が始まる。
でもそこに恋次は居なくて、明日も明後日も居なくて、その永遠に続く不在感が俺を打ちのめした。
数週間後、大学で例の教授を見かけたから、思い切って恋次のことを訊いてみた。
共同執筆した論文は無事受理されて、欧州の一国にある大学に講師として迎えられるのだと。
職場がどこにあるのか知らなかった。俺はそこへ行ったことも電話したこともなかった。
だから、唯一知っていた恋次の家に行ってみた。
雨戸がきっちり閉めてあって、「貸家」の紙が貼り付けてあった。
はっきりと縁が切れたのを感じた。
俺はそこで初めて、声を上げて泣いた。
いつもと同じ竹林が風に揺れ、蒼い空が広がっていた。
[終]
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