いちしの花 2
「・・・恋次」
平坦で抑揚のない呼び声に、恋次は顔を上げた。
いつの間に眼を閉じていたものか。
指が抜かれても、まだ口内が異物感に満ちている。
じゃれつく相手を失った舌も戸惑いを隠せないでいる。
耳には粘着質な水音が残っている。
しかしその喪失の大きさを実感する前に、
去ったはずの白哉の指先はまた、恋次の唇へと戻ってきた。
白哉の細い指先は恋次の唾液で濡れている。
冷え切ったせいか異質に感じられて恋次を身震いさせたが、
愛撫と同意のゆっくりとした滑らかな指の動きに、恋次の躯は熱に疼きだした。
その溶け具合に呼応するように、白哉の指は恋次の上唇に這い登る。
ぬるりとしたその感触に、恋次の背筋がざわつく。
もうそろそろ無視できそうにない。
恋次が白哉の指を自ら咥えそうになったその瞬間、
「足りぬか・・・」
微かな囁きと共に白哉の指は、恋次の唇を離れた。
白哉の反対の手が、膝上に落ちていた恋次の手を掬い上げて胸元で支えたが、
恋次は生憎、自分の唇を去ったばかり白哉の薬指に魅入っていて状況を理解する余裕がない。
なぜなら白哉の指先は、緋色に染まっていたからだ。
まさか血か?
痛みも感じられない密やかさで傷を負わされたか?
だが唇を舐めてみても、血の味はしない。
なにかほろ苦い、別のものの味がする。
恋次の不安を他所にその薬指は、今度は恋次の掌の中に収まる貝の底を走る。
すると貝底に張り付いていた緑は、白哉の指先で鮮やかな赤に色を変えた。
それは艶紅だった。
幾万もの花から抽出され乾燥されたその紅は、
純度が上がりすぎたために本来の色を失い逆色に輝いていたが、
染めあげる対象の水分を得て交じり合い、艶やかな赤へと姿を戻していた。
まるで遊女の爪紅だなと恋次は白哉の指先に見蕩れ、そして自嘲した。
何が遊女だ。
似合わなさすぎて滑稽なのにも程がある。
新たに掬いなおした紅に染まったその指は、まるで血に滴った鬼のそれではないか。
そして体躯の差にも関わらず、抱かれるのは己ではないか。
ならば唇まで不似合いに紅を差し、今度はその立場に相応しく飾りたてろというのか。
まるで道化だ。
だが怒りよりも先に諦観に似た何かが胸の底に沸きあがる。
髪も眼ももとより同じ色ではないか。
全て紅くなったとて何の違いがあろうものか。
ならば鬼の指に委ねるまでのこと。
恋次は静かに瞼を落とした。
白哉の指がゆっくりと恋次の唇の縁を辿る。
はみ出さぬよう輪郭を辿り、丁寧に染め上げていく。
弛緩した恋次の唇は、頑強な体躯とは裏腹に酷く柔らかい。
下唇の膨らみをつぶさぬように、上唇の曲線を壊さぬように、
白哉はその繊細な指先に全神経を集中させる。
だがいくら気をつけても少し押すだけで脆くその形を変え、しどけなく白哉を誘うのだ。
そしてその奥には艶紅よりも紅く誘う舌がゆっくりと蠢いている。
焦らし焦らされ、愉しんでいる。
ならば惑わされ切ってしまう前にと、白哉は恋次の額を覆う手ぬぐいを取り去り、髪を下ろさせた。
深紅の枠取りを得たその面には、白哉をひたと睨みつけるやはり同じ深紅の両眼。
するとあれだけ丁寧に塗りこんだはずの唇の赤は酷く褪せたものに見える。
色が足りぬかと白哉はさらに貝底を掬う。
何度も何度も重ね塗りして、その眼の色に負けぬように。
その髪の艶を損ねぬように。
「・・・・隊長?」
訝しげな声に白哉が我を取り戻すと、
その声に負けぬぐらい訝しげな恋次の紅い両眼が覗き込んでいた。
「どうかしましたか?」
色が変わるとその唇から零れる声までが妙に艶めかしく聞こえるのは何故だろうと白哉は思う。
「なんか今日、調子悪いんじゃねえっすか?」
やはり見透かされていたかと白哉は内心、苦笑する。
だが素直に表に出すわけにもいくまい。
「それは貴様のほうであろう」
白哉が、未だその唇に置いていた指をぐいと口内へ押し込むと、それを阻もうと恋次の舌が押し返す。
その舌を撫でて宥め、今度は歯列に指を添わせると、一拍遅れた動きで舌が纏わりついてくる。
紅く染まった恋次の口が白哉の指を包み込む。。
しかも唇まで共謀して白哉の指の動きを止めようとするから、誘われるまま今度は唇を寄せる。
だが息がかかるその距離で、白哉は動きを止めた。
「・・・・・?」
このまま情事に傾れ込むのを当然と受け止めていた恋次が見返すと、
白哉は軽く瞼を下ろした。
「恋次。この紅が何の花か知っているか」
「あー・・・、紅花ってやつじゃねえんですか?」
白哉の問いに鼻白みながらも恋次は律儀に答えた。
すると白哉はしてやったりとばかりに空々しい無表情を浮かべ、思いつくまま空言を舌に乗せた。
「これは曼珠沙華だ」
「え・・・?」
「真偽の程は知らぬ」
「あんなもんで紅が作れんですか?」
「知らぬと言うておろう」
「つかそんなもん、どこで買ったんですか!」
「夜歩きの折にな」
「ってアンタ、そんな出所もわかんねえものを・・・!」
もちろんその艶紅は、真っ当に紅花から作られたもの。
なのになぜ曼珠沙華などと口にしてしまったのだろうと白哉は口元を押さえた。
→いちしの花 3
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