「ゆかし七題」/
Fortune Fate
空知らぬ雨、空知らぬ雪
余韻が冷めぬのか、
あるいは何か持て余すものがあるのか。
ごろりごろりと転がるばかりの恋次を横目に半身を起こし、脇に寄せてあった衣を取って肩に羽織れば、流水のように肌を舐めて落ちる絹が、未だ燻る白哉の熱を冷たく重く押し鎮めた。
「もう、時間ですか?」
背後からの無粋な質問に無言を貫けば、いつもの沈黙が部屋に満ちて返す。
だから白哉は普段通り、先に身支度を整えて線を引く。
溶け去った肌を掬い寄せ、衣服を身につけて形に戻すたびに、また時を重ねてしまったと後悔に似た何かを感じる。
花であれば花弁を落し、土に戻って時のしがらみより抜け出すものを。
水であれば岩に砕け、波濤となって海へと回帰していくものを。
なのに自分は淡々と生を重ねている。
幾多もの命を無為に散らして、さらに齢を重ねている。
消え去った妻を想い、駆け抜けた旧友を思い、愚にもつかぬ思考の迷いを嗤うと、過ぎ去る今という時間の意味が更に曖昧になった。
前を合わせ、帯を締め、指を滑らせて襟を整えて、表情どおりの冷静さを取り戻そうとした。
だが深い夜を照らす灯がゆらゆらと不安定に揺れている。
そして僅かな歪みをも逃さず、濃い陰影へと映し出している。
ではいつになくざわついているこの心も炙り出されているのか。
早すぎる夏の虫が灯火へと飛び込んだのだろう。
ジリリという幽かな音に、白哉は灯りから顔を背ける。
背けた先の暗闇で、意識を過ぎるのは己の斬魄刀。
幾千と連なる桜の花々にも似た刃。
それを人は美しいという。
無数の花弁を散らし、光を遮り影を創る。
それは己の一部。
全感覚が個体としての己を離れ、
幾億もの花弁に乗って虚空へと離脱するあの圧倒的な開放感。
それを統合する意識。
俯瞰。
ありえない視界で世界を把握する。
支配する。
手に入れたときには圧倒された。
若年らしく興奮もした。
だがそのどちらも克服し、己のものとした。
驕りではない。
なのに今頃になってどうしようもないもどかしさを感じる時がある。
意識の裡で見渡す世界。
もしやこの手にさえ余るものなのか。
高潔な理性などと嘯くこの器では不足というのか。
水へと溶ける血。
濁った水面を弾く花弁。
光を奪われた空。
果たされた義務。
消えぬ不条理。
遠く北方で隠密裏に闘って来た今日という日を想い、ギリリと白哉は知らず歯噛みした。
捨て置かれたまま、布に覆われていく白哉の背をぼんやりと眺めていた恋次は、聞きなれない響きに耳をそばだてた。
だが絹に覆われてしまった後姿はそれ以上、何も語ってくれない。
闇さえも濃く沈み込んだまま、黙って居座っている。
「隊長…?」
白哉は、突然、背後から掛けられた恋次の声にびくりと肩を震わせた。
「た…いちょう…?」
かつて目にしたことの無い白哉の動揺に、恋次は眼を剥いた。
尋常ではない。
そもそも今日の白哉は最初からおかしかった。
急務から戻って来るなり、山とある残務にも構わず、恋次を引き倒した。
そのくせ、肝心の閨事は心ここに在らずといった按配。
いつもの酔狂にしても様子がおかしかった。
恋次は慌てて身を起こした。
だがその動揺に感づいた白哉は、
「屋敷に戻る」
と言い捨てて立ち上がり、背で恋次を牽制した。だが恋次は持ち前の鈍さを装って、
「今からっスか? 何事かと思われますよ?」
と言い募った。
分を超えた物言いだが、別に言いがかりではないと恋次は自分に言い訳をする。
普段なら隊舎内の自室に戻って朝を待つというものを、夜も更けたこの刻限に屋敷へ戻るというのだから、何の支障が出るかわからない。
それを諌めるのも副隊長の任務のうち。
とはいえ、こと白哉のこととなると愚直さが見当違いの方向に暴走しがちな己のこと。
さらに問いを重ねたいのを我慢して口を噤むと、彷徨う手は、その身と同じく忘れられていた布団を探し当て、そっと掻き寄せた。
裸のままの身体にまとうと、温もるより先にその冷たさに神経がひやりと苛立つ。
そういえば外は冷たい雨。
独特の静けさが耳を穿つ。
しっとりと濡れた空気が部屋中に濃く満ちている。
散々吹き込まれた熱も、知らぬ間に消え去っていた。
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